第3話「偶然、余りましたので」
朝4時。
グラーフ伯爵邸の厨房に、バターの焦げる甘い匂いが充満していた。
私は粉まみれのエプロンをつけて、焼き上がったサブレをオーブンから取り出しているところ。3回目の試作。1回目は焦がした。2回目は甘すぎた。3回目にしてようやく、甘さ控えめで表面がさっくり、中がほろりと崩れる理想のバターサブレが完成した。
「……推しの好物を完璧に再現するまでに3時間。まだまだ修行が足りない」
呟きながら、サブレを冷ます。
前世のゲームでは「第一騎士団宿舎の近くにある菓子屋のバターサブレ」がレオンハルトの好物と記載されていた。この世界でその菓子屋を特定済み。味を確認済み。そしてその味を再現する焼き方を、今朝ようやく掴んだ。
「お嬢様」
厨房の入り口にマルガレーテが立っている。寝巻きの上に羽織りものを引っかけた格好で、目の下にうっすら隈がある。
「朝4時からなにをしているんですか」
「焼き菓子が余ったの」
「余ったも何も今焼いていますね」
「余る予定なの」
「予定で余らせるのは『余った』とは言いません」
マルガレーテが厨房に入ってきて、焼き上がったサブレの山を見た。3回分の試作と本番で、控えめに言っても大量の焼き菓子がテーブルに並んでいる。
「これ全部、レオンハルト様に?」
「まさか。こんなに大量に持っていったらおかしいでしょう。厳選した分だけお渡しして、残りは使用人のみんなで食べて」
「つまり本番用以外は全部失敗作だと」
「失敗ではなく試行錯誤の産物よ」
サブレが冷めるのを待つ間に、包装を準備する。伯爵邸にあった白い布ナプキンにサブレを並べ、リボンで包む。推しに渡すものだから丁寧に。でもあまり気合いが入りすぎると怪しまれるから、さりげなく。さりげなさを演出するために30分かけるのは矛盾しているかもしれないけれど。
午前10時。
第一騎士団宿舎の裏手。
訓練の合間に騎士たちが休憩を取る場所があると、推し活情報ノートに記録してある。レオンハルトは午前の訓練後、ここで水を飲んでから午後の執務に向かう。火曜と木曜。今日は木曜。
(推しの行動パターンを完璧に把握している私、えらい)
……と思いつつ、冷静に考えるとこれはストーキングでは?
いや違う。推し活。推し活です。推しの生活圏を理解するのは推し活の一環であって、断じて不審な行為ではない。
裏手の木陰で待っていると、砂利を踏む足音が聞こえた。金属の擦れる音。訓練用の革鎧の匂い——汗と革と、ほんの少し鉄の匂いが混じったもの。
レオンハルトが角を曲がってきた。
(きた!!!推し!!!訓練後!!!汗!!!)
銀の髪が薄く汗で額に張り付いていて、碧い目が少し疲れの色を含んでいる。訓練着の袖をまくった腕に、筋の走った前腕が見える。
(前腕!!!推しの前腕!!!ゲームでは見れなかった推しの前腕!!!ありがとうこの世界!!!)
内心の興奮を全力で押し込めて、令嬢の顔を作る。
「ごきげんよう、レオンハルト様」
レオンハルトが足を止めた。碧い目がこちらを捉える。
「……グラーフ嬢」
「お訓練、お疲れさまでございます」
硬い。声が硬い。推しを前にすると喉が締まって、令嬢口調がさらに堅くなる。自分でもわかっているのに止められない。
「なぜここに」
「偶然、通りかかりまして。こちらに焼き菓子が——偶然、余りましたので、よろしければ」
包みを差し出す。白いナプキンの包みを、両手で、ほんの少し前に。
レオンハルトがそれを見つめている。碧い目が包みと私の顔を交互に見る。
「……偶然か」
「ええ、偶然ですわ」
(大嘘。朝4時から焼いた。3時間かけた。失敗作を2回出した。推しのために焼いた焼き菓子を「偶然余った」と言い張る私はオタクの鑑)
「バターサブレだ」
「ええ」
「……甘さ控えめの」
「はい。たまたまそのように焼き上がりまして」
レオンハルトが一瞬、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
次の瞬間にはもう元の表情に戻っていたけれど、私は見逃さない。推しの表情変化を見逃すオタクは三流。この一瞬の驚きの後に口元が0.3秒だけ緩んだことも、碧い目の奥にかすかな温度が灯ったことも、全部記録する。推し活ノートに書く。絶対に書く。
「……ありがたくいただく」
レオンハルトが包みを受け取った。
指先が、布越しに一瞬だけ触れた。
(指!!!推しの指!!!触れた!!!布越しだけど物理的に接触した!!!)
「それでは、失礼いたします」
逃げた。
完全に逃げた。令嬢としてあるまじき速度で踵を返し、宿舎の裏手から一目散に退散した。
角を曲がったところで、壁に背中を預けて息をつく。心臓がうるさい。春の日差しが壁の煉瓦を温めていて、背中にじわりとその熱が伝わる。
「成功……」
推しに手作りの焼き菓子を渡した。推しが受け取ってくれた。推しが「ありがたくいただく」と言ってくれた。
帰りの馬車の中で、マルガレーテに報告した。
「渡せたの!」
「それはよかったですね。で、『偶然余った』で通じたんですか」
「通じたと思う」
「朝4時から焼いて3時間かけた菓子が偶然余る世界線は存在しません」
「存在する。私が存在させた」
「……レオンハルト様は嘘に鋭い方だと、お嬢様自身がノートに書いていましたよ」
心臓が一瞬跳ねた。
——そうだった。レオンハルトは嘘を見抜く。ゲームでもそういう設定だった。
もしかして、バレていた?
「……次はもっと自然に渡す」
「方向性がおかしいです。『渡さない』が正解では」
「それは推し活の放棄であり、私という人間の否定よ」
マルガレーテが窓の外を見て、小さく首を振った。春風が車内を通り抜ける。
手のひらに、まだ布越しの推しの指の感触が残っている。
今日の推し活ノートは、3ページ分になりそうだった。
次話:「塀の上の視察」




