エピローグ
グラーフ伯爵邸の庭で、お茶会を開いた。
母が植えた薬草園の隣、ラベンダーの香りが流れてくる日当たりのいい場所にテーブルを出して、椅子を並べた。ヴィルヘルムが白いクロスを敷いて、マルガレーテが茶器を運んでくる。
「お嬢様、椅子が足りません」
「もう1脚持ってきて」
「何人お呼びになったんですか」
「……数えてなかった」
マルガレーテが額を押さえた。この人のこの仕草も、数ヶ月で随分見慣れた。
最初に来たのはエステルだった。
「セラフィーナ様! お庭、素敵ですね! わあ、ラベンダー!」
淡い金色の髪を揺らして庭を駆け回っている。聖女の力を持つ男爵家の養女。ゲームの正ヒロイン。そして今は——友達。
「エステル嬢、走ると転びますよ」
「大丈夫です! わたし、走るの得意で——あっ」
転んだ。ラベンダーの茂みに突っ込んだ。マルガレーテが無言で手を差し伸べている。
「お怪我はありませんか」
「ないです! あ、でもラベンダーの匂いがすごい。いい匂い」
服にラベンダーの葉がついたまま笑っている。この子のこういうところが好きだ。まっすぐで、飾らなくて、転んでも笑える強さがある。
次に来たのはユリウス王太子だった。
「……なぜ私が呼ばれているのか、理解に苦しむのだが」
「殿下にも日頃のお礼を申し上げたくて」
「礼? 私はお前を何度も叱責した側だが」
「ええ。おかげでレオンハルト様の横顔を間近で拝見する機会をいただきました」
ユリウスが眉間を揉んでいる。この人のツッコミが空回りするのも、もう定番になりつつある。
エステルがユリウスの隣に座った。「殿下、ラベンダーの匂い嗅ぎますか?」と服の袖を差し出している。ユリウスが困惑しながらもそっと顔を近づけて、「……悪くない」と言った。エステルが嬉しそうに笑う。
(この2人、なんかいい感じでは? 正規ルート、こっちで進行してる?)
ゲームのヒロインと王太子。私が身を引かなくても、この2人は自然と近づいていた。推しを奪い合うのではなく、それぞれの場所に落ち着いていく。ゲームの台本なんかなくても。
足音がした。
振り返ると、レオンハルトが庭の入り口に立っていた。騎士服ではなく、白いシャツに革のベスト。訓練場や宮廷以外で会うのは久しぶりだ。
(推しの私服!!!推しの私服!!!ゲームにないイラスト!!!新規絵!!!)
「……グラーフ嬢。招待を受けたが、場所がわからず庭師殿に案内された」
「ようこそお越しくださいました、レオンハルト様」
令嬢スマイルを全力で貼り付けた。声は震えていない。たぶん。
「……顔が赤いが」
「日差しのせいです」
「曇っているが」
マルガレーテが奥で肩を揺らしている。笑いをこらえている。この侍女、あとで覚えておきなさい。
レオンハルトが隣の椅子に座った。隣に。塀の上じゃなくて、壁越しでもなくて、同じテーブルの隣に。
ヴィルヘルムがお茶を運んできた。カモミールとラベンダーのブレンド。母の薬草園のハーブで作った、推しの好きな甘い香りの茶。
「いい香りだ」
レオンハルトが言った。カップを両手で包んで、湯気の向こうからこちらを見る。
(推しが!!!うちのお茶を!!!「いい香り」って!!!)
「お嬢様、また顔が」
「黙って、マルガレーテ」
「黙りません。お客様の前です」
エステルがくすくす笑っている。ユリウスが「賑やかだな」とこぼした。レオンハルトが小さく——本当に小さく——口角を上げた。
(笑った。推しが笑った。レオンハルト様が笑った。しかも私服で。うちの庭で。隣で。カモミールティーを飲みながら)
推し活日記に書くことが多すぎる。帰ったらすぐ書斎に駆け込まないと記憶が劣化する。推しの私服の細部を記録しなければ。ベストのボタンの数。シャツの襟の形。袖をまくった前腕の——
「また何か記録しようとしているな」
レオンハルトの声。近い。隣だから近い。
「そんなことは」
「嘘が下手だ。前から言っているが」
「……嘘じゃありません」
「目が泳いでいる」
マルガレーテが「お嬢様、諦めたほうがいいですよ」と追い打ちをかけた。エステルが「2人とも仲良しですね!」と拍手している。ユリウスが茶を飲みながら「これが日常なのか」と呟いた。
風が吹いて、ラベンダーの香りがテーブルの上を通り過ぎた。
悪役令嬢ですが、推し活が忙しくて悪事をする暇がありません。
今日も明日も。たぶん、ずっと。
了




