第29話「塀の上じゃなくて、隣」
嫌がらせの訴えは、取り消された。
ユリウス王太子が正式に発表した。訴えの証言者3名の背景にクラウス家との繋がりが確認され、訴えの信憑性が著しく低いと判断された。加えてエステルの証言、レオンハルトの証言、私が提出した書面の三方向から矛盾が証明された。
ディートリヒは騎士団長の座を辞した。辞職か更迭かは公表されていないが、宰相との会食が途絶えたことをマルガレーテが確認している。20年前の理想主義の騎士が、最後にどんな顔をしていたのかは——私は知らない。
婚約は——白紙になった。
正確に言えば、私が辞退した時点で一度白紙に戻っている。そこから「やり直す」かどうかは、当事者同士の意思による——というのが、ユリウスの裁定。
「……つまり殿下は、もう一度婚約するかどうか当事者で決めろ、と」
「そう言われました」
「お嬢様。それは——プロポーズし直せ、ということでは」
マルガレーテが半眼でこちらを見ている。朝のグラーフ伯爵邸、食堂。テーブルの上には焼きたてのパンとローズヒップティーと、ユリウスからの通達書が並んでいる。
「プロポーズ……」
「レオンハルト様がなさるのかお嬢様がなさるのか、という問題はありますが」
「無理。無理よ。昨日の告白で7年分の語彙力を使い果たした。もう言葉が出ない」
「7年分を一晩で使い切るのはお嬢様らしいですね」
ヴィルヘルムが食堂に入ってきた。手には銀の盆と——花束。白いカモミールの花と、紫のラベンダーが束ねられている。薬草園の花だ。
「ヴィルヘルム、それは」
「先ほど、レオンハルト様のお使いの方がお届けになりました」
「推しから花束が!?」
「お嬢様、『推し』ではなくそろそろお名前でお呼びになっては」
マルガレーテが深いため息をついた。何度目になるかわからない。この侍女のため息は、もはやこの家の日常音楽だ。
花束を受け取った。カモミールの甘い匂いとラベンダーの青い匂いが混ざる。薬草園の花。母が植えた花。推しが——レオンハルトが、それを選んだ。
花束の根元に、小さなメモが挟まっていた。
『見晴台で待つ。——午後からで構わない。逃げるな』
最後の一文に笑った。この人は本当に不器用だ。花束を贈っておいて「逃げるな」は、デートの誘い方としてどうなんだ。
(でも推しらしい。レオンハルトらしい。54回——いや、もう周回数は関係ない。この人を7年間見てきた私が言うのだから間違いない。この不器用さが、好きだ)
午後。見晴台。
レオンハルトが胸壁のそばに立っていた。今日は正装ではなく私服。白いシャツに革のベスト。市場で初めて見たときの格好に近い。腕まくりはしていない。
(腕まくりしてほしかった——いや今はそういう話じゃない)
「来たか」
「来ました。逃げませんでした」
「……あの一文は余計だったか」
「花束は嬉しかったですよ」
レオンハルトの耳が、ほんの少し赤くなった。推しの照れサイン。この反応を推し活ノートに記録したい衝動を、全力で抑える。
「グラーフ嬢——いや」
レオンハルトが一瞬、言い直した。
「セラフィーナ」
名前で呼ばれた。
心臓が跳ね上がった。推しに名前で呼ばれるのは初めてだ。ゲームの中でも、名前呼びはルートの最終盤でしか発生しない。しかもフルボイスイベントで。今、目の前で、生の声で聞いている。
(推しの声で名前を——落ち着け。落ち着けセラフィーナ。高森咲良。どっちでもいい落ち着け)
「婚約の件だ」
「はい」
「やり直したい」
短い。不器用に短い。でもまっすぐだ。
「俺は——お前に、隣にいてほしい」
碧い目が真っ直ぐこちらを見ている。昨日の夕暮れの色はもう残っていなくて、午後の光の中で透き通った青。
「塀の上からじゃなく。宿舎の裏手からじゃなく。隣に」
(塀の上じゃなくて——隣)
訓練場の塀。2メートルの外壁の上に座って、推しの訓練を「視察」していた場所。マルガレーテに「覗きです」と言われ続けた場所。推し活の原点。
あの塀の上は特等席だった。推しを一番よく見える場所だった。
でも——塀の上は、遠い。
推しの隣ではない。
「……はい」
声が震えた。令嬢口調は消えている。ただの私の声。
「隣に、います」
レオンハルトの口元が——緩んだ。口角3ミリどころではない。はっきりと笑っている。推しが笑っている。ゲームのスチルにはない、この世界だけの笑顔。
その笑顔を見た瞬間、決壊した。ぼろぼろと涙が溢れて止まらない。7年分泣いた。たぶん。体感で。
「……泣くな」
「泣いてない」
「嘘が下手だな」
「あなたもです」
レオンハルトが手を伸ばして、私の目元を親指で拭った。硬い指先。剣を握る指。その指が、涙を優しく——不器用に——拭っている。
後日。
グラーフ伯爵邸。書斎。
推し活ノートの最後のページに、こう書いた。
『推し活、完結。推しが隣にいる。もう塀の上から見守る必要はない。推しは推しのまま、でも——私の大切な人。ガチ恋でした。最初から。7年間ずっと。
婚約やり直し。今度は政略じゃなく、お互いの意思で。推しが「セラフィーナ」と名前で呼んでくれた。心拍数推定300。死因:推し。
推し活ノートは、これが最後の記録——』
「お嬢様」
マルガレーテが書斎に入ってきた。表情がいつもと違う。いつもの辛辣さの代わりに——困惑がある。
「何?」
「レオンハルト様がいらしています」
「え? 今日は来る予定——」
「書斎に直接案内してしまいました。ヴィルヘルムが」
ヴィルヘルム!
背後で、扉をノックする音。
「入れ——いや、入ってもらっていいですか、マルガレーテ」
「もう遅いです」
扉が開いた。レオンハルトが書斎に入ってくる。銀の髪、碧い目。私服姿。手に——何か革表紙の本のようなものを持っている。
「セラフィーナ」
「は、はい」
「これは——お前の字か」
レオンハルトが手に持っていた本を、テーブルの上にそっと置いた。
革表紙。何も書いていない表紙。見覚えがある。見覚えしかない。
推し活ノート。
——1冊目の。
(え)
「先ほど応接間の棚から落ちてきた。ヴィルヘルムが拾って、中を——」
「ヴィルヘルムーーーーー!?」
叫んだ。令嬢として最大級の叫び。廊下の向こうで「申し訳ございません」という穏やかな声が聞こえたような気がしたが、幻聴かもしれない。
「中を——読んだのか。俺が聞いているのは」
「……どこまで」
「最初のページ」
最初のページ。
推し活ノートの最初のページに何が書いてあったか、私は完璧に覚えている。推し活を始めた初日の記録。
『推し活開始。レオンハルト・フォン・シュテルン。碧眼、銀髪、第一騎士団副団長。好物:バターサブレ(甘さ控えめ)。口癖:「……偶然か」。眉間の皺パターン:要分類。笑顔目撃回数:0回(観察初日)。推し活民として全力を尽くす。ガチ恋ではない(重要)。推しが実在する世界に転生した。これは最高の推し活環境。控えめに言って天国。大声で言って楽園。
PS:推しの婚約者になっている。心拍数推定250。3日間天井を見つめた。食事をしていない。マルガレーテに怒られた』
死にたい。
今すぐこの世界から消えたい。消費者に戻るとかいうレベルではない。存在ごと消したい。
「レオンハルト様、あの——それは——その——」
「眉間の皺パターン、7種類に分類してあるな」
「やめてくださいそれ以上読まないで——」
「『推しが実在する世界に転生した』とは——」
「それは比喩です!! 比喩的表現です!! 文学的な!!」
「……お前の嘘は、本当に下手だな」
レオンハルトが——笑っていた。
口角3ミリどころではない。声を出して笑っている。肩が震えている。碧い目が細くなって、口元に皺が寄っている。笑い声が書斎に響いている。
推しが笑っている。声を出して。
(推しの笑い声。推しの全力の笑顔。ゲームでは見られなかった。この世界でしか聞けない音。この世界でしか見られない顔——)
推し活ノートに記録したい。でもそのノートが今、推しの手の中にある。
マルガレーテが書斎の入口で、額に手を当てていた。
「お嬢様。私から一つだけ」
「何」
「ノートの保管場所を変えてください。今後のためにも」
「……今後?」
「今後もお書きになるんでしょう? 推し活ノート」
レオンハルトが笑いながらこちらを見ている。碧い目に涙が浮かんでいる。笑いすぎて泣いている。推しの笑い泣き。
「……書く」
声が自然に出た。
「書くわよ。推し活ノート。推しが隣にいても書くわよ。というかむしろ隣にいたら情報量が増えるから5ページ分は——」
「5ページ書くな」
「書く」
「俺の眉間の皺を8パターン目から分類するのはやめろ」
「8パターン目は今発見した。笑い泣きのときの皺」
「……」
レオンハルトが笑いを堪えきれずに顔を背けた。肩が震えている。書斎の窓から午後の光が差し込んで、二人の影をテーブルの上に並べている。
マルガレーテがため息をついた。深い、深いため息。でも——口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。
ヴィルヘルムが廊下からお茶を運んできた。盆の上にカップが2つ。穏やかに微笑んで、テーブルに置いて去っていく。
「……頼んでないです」
「ええ。ですがお二人分ご用意いたしました」
老執事の笑顔が、扉の向こうに消えた。
推し活ノート。新しいページ。
『推しが隣にいる。塀の上じゃなくて、隣に。推し活ノートを読まれた。最悪にして最高の事態。推しが笑った。声を出して。8パターン目の皺を発見した。
婚約やり直し。推しは相変わらず不器用で、相変わらず嘘が下手で、相変わらず眉間に皺を寄せている。好きだ。7年間好きだったし、これからも好きだ。
ガチ恋でした。
——最初から』
次話:エピローグ




