第28話「7年間」
レオンハルトが目を伏せている。夕日が沈みかけて、見晴台の空が深い橙と紫のグラデーションに変わり始めている。風が冷たくなった。
1メートル半の距離。
「……グラーフ嬢」
「はい」
「お前に聞きたいことがある。あの日と同じ質問だ」
あの日。この見晴台で聞かれた問い。「誰だ、お前は」。
「お前はなぜ——俺のことを知っている」
碧い目がこちらに戻った。まだ赤みが残っている。でもまっすぐだ。答えを待っている目。あの日と同じ。
あの日、私は「大切だと思っています」としか言えなかった。
今なら——もう少しだけ、言える。
「レオンハルト様。私は——あなたのことを、見てきました」
「……ああ。塀の上から」
「塀の上だけじゃないんです」
声が震える。でも止めない。止めたらまた逃げてしまう。
「あなたの好物がバターサブレだと知っていたのは、偶然じゃありません。蜂蜜入りのライ麦パンがシュテルン領の粗挽きで焼くものだと知っていたのも。リンゴのタルトに生クリームを添えないことも。全部——全部、知っていました」
「どうやって」
「それは——言えません。言えないのですが」
唇を噛んだ。前世のことは言えない。この人の人生がゲームだったとは、どれだけ打ち明けたくても言ってはいけない。
「ただ——一つだけ、嘘をつかずに言えることがあります」
レオンハルトが黙って待っている。風が銀の髪を揺らす。
「私は、あなたのことを——7年間、見てきました」
「7年間?」
「はい。この世界に来るより遥か前から。あなたの好物も、口癖も、眉間の皺が7パターンあることも、訓練後に甘いものを食べると疲労が回復する速度も、全部——7年間かけて知りました」
レオンハルトの目が見開かれた。碧が一段明るくなる。
「7年——俺たちが婚約してからは——」
「婚約の前からです。もっと前から」
「……意味がわからない」
「わからなくて大丈夫です。私が説明下手なだけで——あなたが理解できないのは当然で——」
「グラーフ嬢」
「は、はい」
「理屈はいい」
レオンハルトの声が、硬さを失った。低くて静かで、夕風に溶けそうな声。
「理屈はわからない。7年がどういう意味かも、お前がなぜ俺を知り尽くしているかも。だが——」
一歩近づいてきた。1メートル。
「お前が嘘を言っていないことだけは、わかる」
(嘘が下手だから——)
「お前は嘘をつくと声が上ずる。目が泳ぐ。指先が震える。見晴台で『大切だと思っています』と言ったとき、お前の指は震えていたが、声は——震えていなかった」
レオンハルトが、もう一歩。
半歩の距離。腕を伸ばせば届く距離。推しの体温が風の冷たさの向こうに感じられる。
「あの言葉だけが本当で、それ以外の『偶然です』は全部嘘だった。そうだな」
頷いた。声が出ない。
「ならば聞く。お前の本当を——もう一度聞かせろ」
空が、暗い紫に沈んでいく。見晴台の向こうで最後の夕日が稜線に触れている。王都の灯りがぽつぽつと点き始めて、地上に小さな星を散らす。
風が吹いた。冷たい風。でも推しがこんなに近くにいるのに、寒いとは思わない。
(言え。言えよ私。ここで言わなかったら一生後悔する。ガチ恋じゃないとか、推し活だとか、消費者だとか、全部嘘だったんだから。マルガレーテが最初から見抜いていたように、エステルが「好きなんですよね?」と聞いたように、ヴィルヘルムが笑っていたように——全員わかっていた。わかっていなかったのは私だけ)
「好きでした」
声が出た。かすれて、震えて、令嬢口調のかけらもない、地声の——私の声。
「ずっと。前世から。7年間」
レオンハルトの碧い目が——揺れた。
「あなたが笑うのを見るのが好きでした。口角が3ミリ上がるだけの笑顔が好きでした。木剣の素振りが好きでした。不器用で、感情を言葉にできなくて、それでも真面目に全部に向き合うところが好きでした」
止まらない。7年分の言葉が、壊れたダムのように溢れ出す。
「バターサブレを『うまい』と言ってくれたのが嬉しかった。薬草茶を『ありがとう』と言ってくれたのが嬉しかった。体調を心配してくれたのが嬉しかった。全部嬉しかった。推し活だからじゃない。ガチ恋じゃないなんて嘘だった。最初から——最初から、好きだった」
目の前がにじむ。夕暮れの光がぼやけて、推しの輪郭が滲んでいる。
「推しの隣にいたかった。断罪の場で特等席だって喜んだのは、推しの隣に立てたから。でも本当は——断罪じゃなくても隣にいたかった。ずっと」
声が止まった。息が切れている。7年分の酸素を使い果たしたみたいに、肺が空っぽだ。
沈黙。
風の音だけが、見晴台を渡っている。
レオンハルトが動いた。
半歩の距離がゼロになった。
手が——私の頭に、触れた。
大きな手。硬い掌。剣を握る手。その手が、私の髪の上に——ぎこちなく、不器用に、でも確かに、乗っている。
「……お前は」
レオンハルトの声が、真上から降ってくる。
「7年間——そうだったのか」
「はい」
「『偶然です』も」
「嘘です」
「『ガチ恋じゃない』も」
「嘘です」
「……嘘が下手だと、前から思っていた」
頭の上の手が、少しだけ力を込めた。
「俺は——7年という時間をお前にもらっていたのに、何も返していない」
「返さなくていいって——」
「返す」
頭の上の手が離れて、肩に移った。そしてそのまま——引き寄せられた。
推しの胸の音が聞こえる。速い。規則的だった推しの心拍が、今は速い。シャツの布越しに、汗と革と、かすかな鉄の匂い。訓練後の推しの匂い。
「俺は不器用だから、7年分を返すのに——同じくらいかかるかもしれない」
頭の上で、声が震えている。
「それでもいいか」
(——いいに決まってる)
返事の代わりに、推しのシャツを掴んだ。ぎゅっと。両手で。離さないように。
見晴台の上で、最後の夕日が沈んだ。王都の灯りが二人を下から照らして、冷たい風の中に小さな温もりの圏ができた。
特等席なんて言葉では足りない。
ここは——推しの隣だ。
次話:「塀の上じゃなくて、隣」




