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悪役令嬢ですが推し活が忙しくて悪事をする暇がありません  作者: 夜凪 蒼


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第27話「推し、泣いてる」

審理の翌日。


 レオンハルトから手紙が届いた。「城壁の見晴台で待つ」。一行だけの手紙。推しの筆跡。力強くて硬い字。インクの鉄の匂いがした。


 夕方。


 見晴台に着くと、レオンハルトが胸壁に背を預けて立っていた。正装ではなく、訓練後の簡素な服装。外套も着ていない。シャツの袖をまくった腕に、夕日の光が当たっている。


(推しの前腕。推しの腕まくり。市場で初めて見たときと同じ——いや。今は推し活ではない。消費者に戻ったはず。なのに目が勝手に情報を収集する)


「来てくれたか」


「……はい」


 距離を保つ。2メートル以上。推しの半径に近づくと、思考が壊れるから。


 レオンハルトがこちらを向いた。碧い目。夕日を受けて、暗い青と明るい青が混ざり合っている。


「昨日の続きを話す」


「はい」


「なぜ証言に立ったか、聞きたいだろう」


 頷いた。声が出ない。


「……お前が婚約を辞退した日。俺は——引き止めなかった」


 レオンハルトの声が低い。いつもの硬い敬語ではなく、言葉を選びながら話している。


「引き止める理由が、自分でもわからなかった。政略婚約者が一人減る。それだけのことだと——思おうとした」


 風が吹いた。見晴台の高さを巻き上がってくる風が、レオンハルトの銀の髪を揺らす。


「だが——お前がいなくなった翌日から、何かがおかしかった」


「おかしい——」


「訓練場の塀に誰もいない。休憩場所に包みが置いていない。社交界で俺の名前が出なくなった。全部当たり前のことだ。お前が去ったのだから。なのに——」


 レオンハルトの声が詰まった。


 初めて見る。推しが——言葉に詰まるところを。ゲームでは、レオンハルトの台詞は完成された文章だった。沈黙はあっても、途切れることはなかった。


 でも今、この人は——言葉を探している。


「静かだった。お前がいた頃は気づかなかったが、お前の存在が——日常の一部になっていた」


 碧い目が、夕日から私に移った。


「俺は不器用だ。自分の感情に名前をつけるのが苦手だ。だが——お前がいなくなって初めて、お前がいた場所の空白に気づいた」


(推しが。私の存在を。日常の一部だったと——)


 胸の奥で何かが軋む。崩壊しかけている壁。「消費者でいる」と決めた壁。


「証言に立ったのは、お前が不当に裁かれるのを見ていられなかったからだ。だがそれだけではない」


 レオンハルトが一歩近づいた。2メートルが1メートル半になる。


「お前は見晴台で言った。『大切だと思っています』と」


「あれは——」


「俺は、あの言葉に答えていない」


 風が止んだ。見晴台の上が静まり返る。


「あのとき答えられなかったのは——俺にもわからなかったからだ。お前が何者で、なぜ俺を知り尽くしていて、なぜ偶然と言い張りながら毎回俺の好物を持ってくるのか。全部わからなかった」


 レオンハルトの唇が震えている。気づいた。推し活で鍛えた目は、推しの微細な変化を見逃さない。唇の端が0.5ミリほど揺れている。


「今もわからない。お前が誰なのか、なぜ俺のことをそこまで知っているのか」


「……」


「だが——わかったことが一つある」


 碧い目が、まっすぐ私を見た。


「お前がいない日常は——俺にとって、足りない」


 心臓が止まった。


 止まってから、激しく動き始めた。血が全身を巡る。耳の奥が熱い。視界がにじむ。


「俺は——気づくのが遅かった」


 レオンハルトの声がかすれた。


「お前が差し入れを持ってきてくれたとき。薬草茶を届けてくれたとき。社交界で俺のために動いてくれたとき。全部——受け取るだけで、何も返せていなかった」


「返す必要なんて——」


「ある」


 声が強くなった。


「お前は『見返りを求めない』と言うだろう。だが俺は——お前に何も返せていないことが、ずっと——」


 レオンハルトが口を閉じた。


 拳が握られている。顎が引き絞られている。騎士の佇まいが崩れかけている。


 そして——碧い目の縁が、赤くなっていた。


(推し、泣いてる)


 脳が一瞬で真っ白になった。


 推しが泣いている。レオンハルト・フォン・シュテルンが。ゲームで一度も泣かなかったキャラクターが。碧い目の縁を赤くして、唇を噛んで、拳を握りしめて——泣きそうになっている。


(推し、泣いてる。推しが泣いてる。推しの目が赤い。推しが——)


 思考が壊れた。推し活の用語も、オタクの理性も、消費者としての距離も、全部壊れた。


 この人が泣いている。


 この世界でたった一人の、大切な人が。


「レオンハルト様」


「……なんだ」


「泣かないでください」


「泣いていない」


「嘘が下手ですね」


 マルガレーテと同じことを言ってしまった。レオンハルトの碧い目が驚いたように見開かれて——それから、力が抜けたように、目を伏せた。


「……そうだな。嘘が下手だ。お前と同じで」


 風が吹いた。夕暮れの見晴台。二人の間に残った1メートル半の距離が、今はどうしようもなく遠くて——どうしようもなく近い。


 推し活ノートに書くべき言葉が、何も浮かばない。


 いや——推し活ノートじゃない。これはもう、推し活の記録じゃない。


 何なのかは、まだわからない。


次話:「7年間」

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