第26話「一つ一つ」
レオンハルトが大広間に入ってきた。
騎士団の正装。深紅のマントが肩にかかり、靴音が赤い絨毯の上を規則正しく鳴らしていく。銀の髪が天窓からの光を受けて、白く輝いている。
碧い目が——まっすぐ、壇上のユリウスを見ている。
(推し)
その一語が胸を貫いた。推し活をやめたはずなのに、推しの姿を見た瞬間に全身が反応する。心臓が跳ねる。呼吸が浅くなる。目が離せない。
「副団長。この場に用があるのか」
ユリウスが壇上から声をかけた。険しい表情。護衛の任でもないのに審理の場に現れた騎士団の副団長。異例の事態。
「殿下。発言の許可をいただきたい」
「お前は当事者ではないが」
「証人として参りました」
広間にざわめきが走った。列席していた文官たちが顔を見合わせる。ユリウスの紫の目が細くなった。
「……何について証言する」
「グラーフ嬢について。彼女が何をしてきたか、俺は知っている」
レオンハルトがこちらを見た。
碧い目が、私を捉える。距離は5メートルほど。前に見晴台で「誰だ、お前は」と聞いたときの距離。あのときより——目の中にある感情が、はっきりと見える。
(推しが——来た)
思考が止まる。なぜここにいるのか。婚約は辞退した。引き止めないと言ったはず。推しの人生から私は退場したはず。
「副団長。承知した。証言を許可する」
ユリウスの声が、広間に落ちた。
レオンハルトが壇上に向き直り、姿勢を正した。騎士としての佇まい。それから——語り始めた。
「殿下。グラーフ嬢は俺のもとに焼き菓子を届けに来ていました」
静かな声。いつもの硬い口調だが、声の温度がいつもより低い。事実を報告する騎士の声。
「最初はバターサブレでした。甘さ控えめの、訓練後に適した菓子。『偶然余った』と言って手渡された。嘘でした。味が——特定の菓子屋の味を再現したものだった。その菓子屋は俺しか知らない店で、グラーフ嬢が独自に突き止めて、早朝から焼いたものだと——後に知りました」
ユリウスが眉を上げた。
「次に蜂蜜入りのライ麦パン。シュテルン領産の粗挽きライ麦と、南門の養蜂農家の蜂蜜を使ったもの。俺の出身地の材料を、市場で月に2回の入荷日を把握して調達していた」
(推し、全部知っていた——)
膝が震え始めた。
「リンゴのタルトには生クリームを添えず、胡桃のビスケットは塩を効かせていた。全て俺の好みと一致していた。6回連続で。偶然ではない」
レオンハルトの声が、広間の天窓に吸い込まれていく。ユリウスもエステルも、列席者も、誰一人として口を挟まない。
「俺が体調を崩した際、グラーフ嬢は薬草茶を届けてきました。エルダーフラワーとリンデンとカモミールの調合。医務官が驚く精度でした。後から聞いたところ——前夜に薬草図鑑を5時間読み込んで、さらに2時間調合の練習をしていたそうです」
(ヴィルヘルム、全部マルガレーテに報告してたって言ってたけど——レオンハルト様にまで伝わっていたの?)
「社交界では、俺の功績を茶会で布教していた。北方掃討作戦の詳細を正確に語り、俺の部隊の戦績を事実ベースで広めていた。機密漏洩の疑いがかけられましたが、調査の結果、全て公開情報の精度の高い積み重ねであることが確認されています」
ユリウスが頷いた。書面で確認済みの事実。
「そして——ディートリヒ団長による不正な訴えの構造を、グラーフ嬢が最初に見抜いた。証言者の背景、クラウス家との繋がり、訴えの矛盾。殿下の調査が始まるきっかけを作ったのは、彼女の書面です」
広間の空気が変わった。
ディートリヒの名前が出た瞬間、列席者たちの間に緊張が走る。壁際に立っている文官の一人が、ちらりとディートリヒの方を見た——ディートリヒは広間にはいない。呼ばれていないのだ。
「殿下。俺が証言したいのは以上です。グラーフ嬢は——嫌がらせなどしていない。エステル嬢に構っている暇がないほど、別のことに忙しかった」
レオンハルトの口元が、ほんの一瞬——緩んだ。
苦笑。
「俺の好物を再現することに、です」
広間にぽかんとした空気が流れた。ユリウスが口を開きかけて、何を言えばいいかわからないという顔をしている。
「……副団長。証言は受け取った。が——一つ確認する」
「はい」
「お前は今、元婚約者を庇っているのか」
レオンハルトが背筋を正した。碧い目がユリウスを真っ直ぐ見据える。
「事実を申し上げています。庇っているのではなく——伝えるべきだった事実を、伝えているだけです」
ユリウスが腕を組んで、しばらく黙った。紫の目が書類とレオンハルトと私を順に見る。
「……今日の審理はここまでとする。証言を精査し、改めて判断を下す。グラーフ嬢、エステル嬢、副団長——下がっていい」
壇上からユリウスが立ち上がった。文官たちが慌ただしく動き始める。
私は——動けなかった。
レオンハルトが壇上から降りて、こちらに歩いてくる。靴音が赤い絨毯の上に近づいてくる。
5メートル。4メートル。
(推しが来る。推しが私のために証言してくれた。推しが——全部知っていた。差し入れも、薬草茶も、布教も、全部——)
目の奥がじんと熱くなる。唇を噛む。ここで泣いたら令嬢として終わる。もう終わっているかもしれないけど。
レオンハルトが2メートルの距離で立ち止まった。
「グラーフ嬢」
「……レオンハルト様。なぜ——」
「あとで話す」
それだけ言って、レオンハルトは踵を返した。大広間を出ていく。銀の髪が、赤い絨毯の上を遠ざかっていく。
横で、エステルが私の腕を掴んだ。
「セラフィーナ様、レオンハルト様——」
「……うん」
「泣いてます?」
「泣いてない」
「目が赤いです」
「薔薇の花粉が——」
「ここに薔薇はありません」
(この子にだけはツッコミの才能が——もういい)
次話:「推し、泣いてる」




