第24話「私の怒り」
宮廷の回廊で、ディートリヒに呼び止められた。
王城に最後の書類——婚約辞退に伴う手続きの一つ——を届けに来た帰り。回廊を歩いていたら、角を曲がったところに立っていた。
偶然を装うのが、上手い人。
「これはこれは。グラーフ伯爵令嬢」
穏やかな微笑。目が笑わない目。顎鬚を整えた壮年の男が、回廊の窓際に寄りかかるように立っている。夕方の西日が彼の背後から差して、影が長く伸びている。
「ごきげんよう、ディートリヒ閣下」
「お噂はかねがね。婚約をお辞めになったとか」
微笑のまま。にこやかなまま。
「ええ」
「賢明なご判断ですな。副団長のお立場を考えれば、断罪保留中の令嬢が婚約者では——いささか荷が重いでしょう」
空気が冷えた。
でも私は何も感じない——はずだった。もう推し活はやめた。推しのことは考えない。消費者に戻った。ディートリヒの言葉は、もう私には関係ない。
「それと——嫌がらせの訴えの審理が近いと伺っていますが」
「はい。王太子殿下の最終審理に呼ばれております」
「ふむ。大変ですな。——しかし、令嬢が大人しく身を引かれたおかげで、副団長もお楽になったのではないですかな。あの方は——弱点がなくなった。お荷物がなくなった、と言うべきですか」
足が止まった。
お荷物。
——お荷物。
「令嬢の推し活、でしたか。社交界で随分と評判でしたな。婚約者の功績を吹聴して回る悪役令嬢。——滑稽な話だ」
ディートリヒの微笑が深くなった。穏やかに、紳士的に、こちらを見ている。
「まあ、もう終わったことですな。令嬢が消えれば、全て丸く収まる。副団長は自由になり、訴えの審理で令嬢は然るべき処分を受け——」
「閣下」
声が出た。
自分でも驚くほど、冷たい声だった。
「然るべき処分、とおっしゃいましたか」
「ええ。嫌がらせの訴えは複数あるわけですし——」
「あの訴えが全てあなたの周辺から出ていることを、殿下はもうご存じですよ」
ディートリヒの微笑が——止まった。
一瞬。ほんの一瞬だけ、目の奥の光が変わった。それから微笑が戻る。
「何をおっしゃっているか——」
「証言者のうち2名がクラウス家の縁者、もう1名は閣下の直属の文官。訴えの構図が不自然であることは、私が殿下に提出した書面で明らかにしています」
口が動いている。推し活で集めた情報が、勝手に言葉になって出てくる。止められない。
「閣下。あなたはレオンハルト様の昇進を妨害するために、私を道具にしました。嫌がらせの濡れ衣を着せ、機密漏洩の疑いをかけ、婚約者を弱点として利用しました」
「令嬢、それは言いがかりというもの——」
「言いがかりではありません」
声が震えている。でもそれは恐怖じゃない。
怒りだ。
推しのためじゃない。
「推しのために」怒っているのではない。
——私のために、怒っている。
「私は。あなたに利用されたんです」
ディートリヒの微笑が、かすかに揺れた。
「私の推し活は——私の全てでした。朝4時に起きて焼き菓子を焼いて、薬草図鑑を5時間読んで、社交界で布教して、推し活ノートにびっしり記録して。その全部を、あなたは政治工作の材料に変えた」
声が大きくなっている。回廊に反響する。令嬢口調が完全に崩壊している。もう構わない。
「推しのためにやったことが、推しを傷つけた。それは——私の責任でもあります。でもその構図を作ったのは、あなたです」
ディートリヒの灰色がかった目が、微笑の奥からじっとこちらを見ている。
「私は身を引こうとしました。あの方の人生から消えれば丸く収まると思いました。でも——違う」
拳を握った。爪が掌に食い込む。
「私が消えても、あなたは消えない。あなたは別の手であの方を攻撃するだけだ。マルガレーテがそう言いました。あの人はいつも正しい」
ディートリヒが何か言おうとした。口を開きかけて——閉じた。
微笑が消えている。初めて見る表情。穏やかさの仮面が剥がれた、素の顔。
「閣下。私は——もう逃げません」
最後の一言を言い切って、踵を返した。
歩く。今度は走らない。走って逃げるのはやめたのだ。足が震えているけれど、一歩一歩、回廊の床を踏む。
角を曲がったところで、壁に背をつけた。
息が荒い。手が震えている。心臓がうるさい。
でも——胸の奥の空虚が、少しだけ薄くなっている。
(怒った。私が。推しのためじゃなくて——私のために)
推し活をやめてから初めて、何かを感じた。空虚でも無味でもない、熱のある感情。
マルガレーテが言った。「消えるのではなく、戦う方法を考えてください」。
逃げない。消えない。
推しのためでもなく、誰かのためでもなく——私が、私として。
帰りの馬車の中で、マルガレーテに報告した。
「ディートリヒに怒鳴った」
「……はい?」
「怒鳴ったというか、言い返した。全部」
「令嬢口調は」
「崩壊した」
「お嬢様の令嬢口調は砂の城より脆いですね」
マルガレーテが呆れた声を出したけれど、口元がほんの少し——緩んでいた。
「推し活ノート、開いてもいいですか」
「お嬢様のノートです」
馬車の揺れの中で、推し活ノートを膝に開いた。白紙のページに、ペンを走らせる。
『ディートリヒに言い返した。推しのためじゃなく、私のために怒った。初めてかもしれない。「私が」怒ることを、自分に許したのは。
推し活はまだ再開していない。でも——推し活ノートは開けた。白紙のページに字が書ける。
次は、審理だ』
次話:「嫌がらせをしたことはありません」




