第23話「笑わなくなった人」
推し活を、やめた。
正確には、もうやめている。婚約辞退を申し出た日から。差し入れも布教も塀の上の視察も全部やめて、推し活ノートも閉じたまま書斎の棚に戻した。
朝、目が覚める。
起きて、顔を洗って、朝食を食べる。以前なら朝4時から厨房にいた。推しの好物を焼いていた。バターの焦げる匂い、粉まみれのエプロン、3回目の試作でようやく完成する甘さ控えめのサブレ。
今はただ、用意された食事を食べるだけ。
食事の味がしない。
いや、味はしている。ヴィルヘルムが淹れてくれた紅茶のベルガモットの香りも、焼きたてのパンの小麦の匂いも、ちゃんと感じる。感じるのに、頭が反応しない。以前なら「この蜂蜜はレオンハルト様の好みに近い」とか「このパンの焼き加減を次の差し入れに応用しよう」とか、全ての味覚が推し活と結びついていた。
その回路が切れている。
「お嬢様、本日のご予定は」
マルガレーテが食堂で聞いてくる。
「……特にないわ」
「刺繍の時間ですが」
「そうね。刺繍をしましょう」
刺繍をした。花のモチーフ。以前は推しの家紋に似た模様を刺繍しようとして、マルガレーテに「気持ち悪いです」と言われた。今は花。ただの花。
針を刺して、糸を引いて、また刺す。単調な作業。手は動いているのに、頭が空っぽだ。
午後は庭を散歩した。
薬草園の前を通ったとき、足が止まった。母が植えたラベンダー。エルダーフラワーの白い花。カモミール。
ここで薬草を摘んで、推しの風邪に備えて調合を練習した。5時間かけて薬草図鑑を読み込んだ夜。推しの体調不良を予測して準備していた日々。
今は——ただの庭。手入れは庭師がしてくれている。私が来る理由がない。
通り過ぎた。
夕方。書斎で本を読む。読んでいるはずだが、ページが進まない。文字が目を滑る。
「お嬢様」
ヴィルヘルムが夕食の支度を知らせに来た。白髪の老執事が、穏やかに微笑んでいる。いつもの笑顔。
「お嬢様」
「はい?」
「最近、笑わなくなりましたね」
足が止まった。
「……笑ってるわよ。普通に」
「いいえ。笑っていらっしゃいません」
ヴィルヘルムが珍しく、はっきりと否定した。穏やかな声のまま、でも言い切る。
「以前のお嬢様は——推し活をなさっていた頃は——よく笑っていらっしゃいました。厨房で焼き菓子が成功したとき。塀の上から降りてきて推し活ノートに何かを書くとき。差し入れを持って出かけるとき」
「ヴィルヘルム——」
「あの笑顔が、なくなりました」
老執事の目が、穏やかなまま、でもまっすぐこちらを見ている。この人は多くを語らない。察して先回りする人。だからこそ、言葉にしたときの重みがある。
「食事も減っていらっしゃいます。睡眠も浅いようです。マルガレーテが心配しております。——私も、心配しております」
「……大丈夫よ」
「嘘が下手でいらっしゃいますね。レオンハルト様と同じように」
息が詰まった。
推しの名前を聞いただけで、胸の奥がきゅっと締まる。聞きたくない。聞くと思い出す。推しの碧い目。推しの声。「引き止めはしない」と言ったときの、掠れた声。
「ヴィルヘルム。私は——推し活をやめたの。もうレオンハルト様のことは——」
「お嬢様」
ヴィルヘルムが一歩近づいて、少し腰を屈めた。老執事の目線が、私の目線に合う。
「笑わなくなった人は——何かを失った人ですよ」
それだけ言って、ヴィルヘルムは食堂の方へ戻っていった。
一人になった書斎で、窓の外を見た。夕暮れの空が紫に沈んでいく。薬草園のラベンダーが風に揺れて、紫の花穂が暗がりに溶けていく。
棚に目が行く。推し活ノートが置いてある場所。革表紙のノート。中には推しの記録が詰まっている。訓練の観察メモ。差し入れの成功記録。推しの笑顔の目撃情報。推しの声の変化。推しの——全部。
手が伸びそうになって、止めた。
消費者に戻ると決めたのだから。推しの人生には干渉しない。ノートを開けば、また引き戻される。推しのことを考えて、推しのために動いて、推しの足を引っ張る。
手を下ろした。
夕食を食べた。味がした。しかし美味しいとも不味いとも思わなかった。推しに関係のない味は、ただの栄養でしかない。
——嫌だと思った。
この空虚が。この無味が。推しのいない日常が。何も感じない自分が。
嫌だと思ったのに、どうすればいいかわからない。
次話:「私の怒り」




