第22話「影がいない」
Side:レオンハルト
訓練場は、いつも通りだった。
朝の砂埃。木剣が交差する乾いた音。新人の掛け声。足が砂を蹴る音。何一つ変わっていない。
変わっていないはずなのに、何かが欠けている。
木剣を振りながら、ふと塀の方を見た。
訓練場の外壁。高さ2メートルちょっとの石塀。あそこにいつも——座っていたはずだ。ドレスの裾を風に揺らして、メモを取るような仕草で。声をかけると「視察中です」と真顔で答える。
塀の上に、誰もいない。
木剣を下ろして、水筒を手に取る。木陰のベンチに腰を下ろす。いつもの休憩時間。火曜と木曜の午前、訓練後。
この場所には——白い布ナプキンの包みが置かれていたことがある。甘さ控えめのバターサブレ。蜂蜜入りのライ麦パン。偶然余ったと言い張って、6回連続で俺の好物を当てた包み。
ベンチの上には何もない。
「副団長」
新人の騎士が走ってきた。訓練の質問。答えて、姿勢を直してやる。いつもの作業。
「副団長、最近——差し入れの方、お見えになりませんね」
「……知らないな」
「あの、伯爵令嬢の方です。いつも包みを持って来られていた——」
「用はそれだけか」
「は、はい。失礼しました」
新人が走り去る。
差し入れの方。知っている。この場所で会うたびに「偶然です」と言い張っていた女。俺の好物を全部知っていて、俺の行動パターンを把握していて、俺の社交界での評判を一人で築き上げていた女。
嘘が——壊滅的に下手だった。
偶然なんかではないことは、最初から気づいていた。バターサブレの時点で。甘さ控えめ、表面がさっくり、中がほろりと崩れる。あの菓子屋の味を完璧に再現していた。宿舎の近くの、俺しか知らないはずの菓子屋の味を。
そのとき思ったのは——不審ではなかった。
不思議だ、と思った。
なぜこの女は、俺のことをこれほど知っているのか。婚約者として何年も形式的に同席していただけの相手が、なぜ俺の好物を、俺の訓練スケジュールを、俺の戦功の詳細を、正確に把握しているのか。
答えはまだ出ていない。
見晴台で聞いた。「誰だ、お前は」と。返ってきたのは、「大切だと思っています」。震える声。赤くなった目。逃げる背中。
——それから数日後、婚約辞退の申し出。
「あなたの足を引っ張りたくない」。
あの言葉を聞いたとき、胸の奥に熱い塊が落ちた。
怒りに近い何か。だが怒りとは違う。もっと手前の——焦り、かもしれない。この女が、勝手に自分を消そうとしている。勝手に「正しいルート」とか言い出して、俺から離れようとしている。
引き止めたかった。
引き止める理由が、俺自身にもわからなかった。
政略婚約者。形式的な繋がり。家同士の都合。それ以上の感情が——あるのか。あるのだとして、それは何だ。名前がつけられない。
だから引き止めなかった。引き止める言葉を持っていなかった。
水筒を閉めた。ぬるい水の味が、口の中に残る。
午後。執務室で書類を処理する。報告書の数字を追い、部隊の編成表を確認し、補給の要請書に署名する。いつもの業務。
だが——集中できない。
書類の合間に、視線が窓の外へ向かう。訓練場の塀が見える。誰もいない塀。
署名のペンが止まった。
いつから俺は、あの塀を気にしていた?
考えてみれば、セラフィーナ・フォン・グラーフの存在を意識し始めたのは、彼女が急に変わった頃からだ。以前の彼女はエステル嬢に執着する陰湿な令嬢だった。それがある日突然——差し入れを持ってくるようになり、塀の上に現れるようになり、社交界で俺の功績を語り始めた。
変わり方が唐突すぎた。だから最初は警戒した。何か裏があるのかと。
裏はなかった。あの女は——ただ純粋に、何かに突き動かされていた。
体調を崩したとき、薬草茶を持ってきた。調合が完璧だった。医務官が驚くほどの精度。あの時間に、あの薬草を、あの配分で——どれだけの準備をしたのか。俺には想像がつかない。
なのに「偶然、余りましたので」と言った。嘘が下手なまま。
ペンを置いた。
執務室が静かだ。いつも静かだったはずなのに、今日はその静けさが——妙にうるさく感じる。
グラーフ嬢がいた頃は、静かではなかった。正確に言えば、彼女は俺の視界の端にいつもいた。塀の上、宿舎の裏手、回廊の柱の陰。存在を感じていた。鬱陶しくはなかった。不快でもなかった。
——安心していた、のかもしれない。
誰かが自分を見ている。自分のことを知っている。肩書きではなく、好物の味まで。誰にも話したことのない些細なことまで。
それを失った。
自分から手放した。引き止めなかった。
「……静かだな」
呟きが、誰もいない執務室に落ちた。
窓の外で、風が砂を巻き上げている。訓練場の砂埃が、夕日を受けてきらきらと光る。
その光の中に、もう影は映らない。
次話:「笑わなくなった人」




