第21話「正しいルートへ」
城壁の見晴台を、待ち合わせ場所に指定した。
手紙を出したのは昨夜。マルガレーテに清書を頼もうとしたら、「自分でお書きなさい」と突き返された。2回書き直して、3回目でようやく封ができた。
見晴台を選んだのは、あの日の記憶があるからだ。推しに「誰だ、お前は」と聞かれた場所。推しに「大切だと思っています」と答えてしまった場所。
あの場所で、終わりにする。
午後4時。
見晴台に着くと、レオンハルトはすでに胸壁のそばに立っていた。巡回中だったのだろう、外套を羽織った正装姿。西日がまだ高い位置にあり、銀の髪を白く照らしている。
(推しだ)
その一語が胸を過って、唇を噛んだ。
「ごきげんよう、レオンハルト様」
「……来たか」
レオンハルトがこちらを向いた。碧い目。あの日と同じ場所、同じ風の匂い。違うのは、私が何を言いに来たか——決まっていること。
「手紙を受け取りました。話がある、と」
「はい」
風が吹いた。見晴台の高さから見下ろす王都の屋根が夕日の色に染まり始めている。遠くの鐘楼がぼんやりと霞んで見える。
深く息を吸った。
「レオンハルト様。婚約の辞退を——申し出に参りました」
空気が止まった。
レオンハルトの碧い目が、ほんの一瞬だけ見開かれた。それからすぐに戻る。無表情。いつもの無表情。でも肩甲骨のあたりが強張っている。推し活で鍛えた目は、その程度の変化を見逃さない。
「……理由を聞いていいか」
「あなたの足を引っ張りたくないのです」
用意してきた言葉を、丁寧に並べる。声が震えないように、ゆっくりと。
「私が婚約者でいる限り、ディートリヒ閣下に利用される材料になります。機密漏洩の疑いも、嫌がらせの訴えも——全て、私があなたの婚約者であることが原因です」
「それは——」
「婚約が解消されれば、あなたの弱点は消えます。次期団長への道に、私という障害がなくなる」
言い切った。
喉の奥が痛い。令嬢口調が剥がれそうになるのを、必死で保っている。
レオンハルトが黙っている。胸壁に片手をついたまま、こちらを見ている。碧い目が夕日の光を受けて、暗い青に変わっていく。
「グラーフ嬢」
「はい」
「お前は——俺のために、婚約を捨てるのか」
「あなたの足を引っ張らないためです」
「同じことだ」
「違います。私は——」
「違わない」
レオンハルトの声に力が入った。いつもの抑制が薄れている。
「お前はいつもそうだ。俺のためだと言って、自分を切り離す」
一歩、近づいてきた。距離が縮まる。2メートル。1メートル半。
「差し入れも布教も、全部俺のためだと言った。だが俺は頼んでいない」
「それは——」
「頼んでいないのに、お前は勝手に動いて、勝手に追い詰められて、勝手に消えようとしている」
声が、低い。怒りではない。もっと複雑な何か。
「俺の意思は——どこにある」
息が止まった。
(推しの——意思)
考えたことがなかった。推しが何を望んでいるか。推しがこの婚約をどう思っているか。私はずっと「推しのために」と考えていたのに、推しに聞いたことがない。
レオンハルトの碧い目が、真っ直ぐこちらを射抜く。
「お前が消えることを、俺が望んでいると思ったのか」
「……」
「思ったのか」
答えられない。
答えたら——「推しのため」という言い訳が、全部崩れてしまう。
「レオンハルト様。私は——あなたの物語に干渉すべきではないんです」
声が小さくなる。
「あなたの人生は、あなたのものです。私が——勝手に推して、勝手に守って、勝手に差し入れして。でもそれは全部、私の自己満足で。あなたは何も頼んでいない。だから——」
「グラーフ嬢」
「だから、正しいルートに戻してください。私がいない、正しい物語に——」
「黙れ」
静かだった。
怒鳴ったのではない。ただ、静かに言った。その一語が、見晴台の風を裂いた。
レオンハルトの目が揺れている。碧い目の奥に、名前のつけられない感情が渦巻いている。
「……俺は」
言いかけて、口を閉じた。唇を引き結んで、視線が逸れる。拳が握られている。外套の裾が風に揺れて、二人の間に影を引いた。
長い沈黙。
遠くで、夕方の鐘が鳴った。
「……わかった」
レオンハルトが言った。低く、掠れた声で。
「お前がそう望むなら——引き止めはしない」
胸の中で何かが折れる音がした。
そうだ。これでいい。ゲームのシナリオ通りだ。悪役令嬢は退場する。推しはヒロインと結ばれる。正しいルート。正しいエンディング。
「……ありがとうございます」
一礼した。深く。顔を上げたくない。上げたら推しの表情を見てしまう。見たら、もう二度と離れられなくなる。
「それでは——失礼いたします」
踵を返した。
見晴台の石段を降りていく。足元がぼやけている。視界がにじんでいる。石段を踏み外しそうになって、壁に手をついた。冷たい石の感触。その冷たさだけが今、確かなもの。
走らなかった。
走ったら泣くから。
城壁を出たところで、マルガレーテが待っていた。私の顔を見て、何も言わなかった。ただ馬車の扉を開けて、乗り込む私の背中を見ていた。
馬車の中で、推し活ノートを膝に開いた。
書く。最後の記録を。
『婚約辞退を申し出た。レオンハルト様は——引き止めなかった。正しい選択。正しいルート。推しの物語は、これで正しく進む。
消費者に戻る。推しの隣にいられる時間は、今日で終わり』
最後の一文字を書いた瞬間、インクがにじんだ。
紙の上に、水滴が一つ。
——雨ではなかった。
次話:「影がいない」




