↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢ですが推し活が忙しくて悪事をする暇がありません  作者: 夜凪 蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/30

第20話「消費者のまま」

推し活ノートを再開して、2日が経った。


 以前のように朝4時から焼き菓子を焼くことはしなかった。訓練場の塀にも登っていない。社交界の布教もしていない。ノートを開いて、白紙のページを眺めて、何も書けないまま閉じる。それを繰り返している。


 再開と言っておいて、何もできていない。


 薬草園のベンチに座って、ラベンダーの紫をぼんやり見つめていた。午前の光が葉の表面を白く照らしている。風が吹くたびに、母が植えた薬草たちがそよいで、青い匂いが鼻をくすぐる。


(推し活、再開したはずなのに。ペンが動かない)


 理由はわかっている。


 推しの足を引っ張ったという事実が、まだ胸の底に沈んでいる。マルガレーテに「消えるのは逃げだ」と言われて、エステルに「まっすぐでいい」と言われて、ノートを開くことはできた。でもそこから先——推しのために動くことが、怖い。


 動けば動くほど、推しに迷惑をかけるかもしれない。


 布教は機密漏洩に変えられた。差し入れは「知りすぎている」と不審がられた。推し活のすべてが、推しを追い詰める材料に変わった。


 それなら。


(推しの人生に触れなければいい)


 オタクの原則に立ち返る。推しは推し。私は私。画面の向こうから眺めるだけの存在。消費者。


 前世では、それが当たり前だった。ゲームの画面を見て、推しの台詞を読んで、スクリーンショットを撮って、感想を書く。推しの人生に一切干渉しない。推しは推しの物語を生き、私はそれを受け取るだけ。


 この世界に来て、距離がおかしくなった。推しが実在するから、手が届くから、触れられるから——消費者でいられなくなった。


 だから戻るべきだ。消費者に。


(推しの人生に干渉してはいけない。オタクは消費者のまま、推しの幸せを祈るだけでいい)


 ベンチから立ち上がった。膝の裏が冷えている。長く座りすぎた。


 書斎に戻って、推し活ノートを開いた。ペンを持つ。今度は書ける。


『決断。推し活の方針を転換する。これまでのような能動的な推し活——差し入れ、布教、情報収集——は全て停止。推しの人生に干渉しない。消費者に戻る。塀の上から見守るのも、もうやめる。推しは推しの人生を歩く。私はその外にいる。


 これがオタクとして正しいあり方。推しの幸せを一番に考えるなら、私は推しから離れるべき』


 ペンを置いた。


 インクが乾くのを待つ間に、もう一つ書くことがあると気づいた。


 婚約。


 政略婚約者という立場が、ディートリヒに利用される原因になっている。婚約者だから推しの弱点にされる。婚約者だから推しが庇おうとする。婚約を続けている限り、私の存在そのものが推しの足枷になる。


(婚約を辞退すれば——推しは自由になる)


 ペンを取り直して、震える字で書き加えた。


『婚約辞退を申し出る。レオンハルト様の足を引っ張りたくない。これ以上推しの人生に干渉しない。消費者のまま、推しの幸せを祈る。それが、オタクとしての最後の推し活』


 書斎の扉が開いた。


「お嬢様、お茶を——」


 マルガレーテが盆を持って入ってきて、私の顔を見て、止まった。


「……何を書いたんですか」


「推し活ノートを更新しただけ」


「その顔で書く推し活ノートに、ろくなことは書いていないですね」


 マルガレーテが盆をテーブルに置いて、私の隣に来た。ノートを覗き込む。もう隠さない。どうせこの人には全部筒抜けだ。


 マルガレーテの目が文字を追う。表情が固くなっていく。


「……婚約辞退」


「ええ」


「本当にそれでいいのですか」


 声が静かだった。いつもの辛辣さがない。それが逆に、この問いの重さを物語っている。


「いいとか悪いとかじゃない。推しのために必要なことよ」


「お嬢様のためではなく?」


「推しのため」


「お嬢様自身は——どうしたいんですか」


 答えなかった。


 答えたら、崩れる。


 マルガレーテがしばらく私を見つめて、それからお茶のカップを差し出した。


「ローズヒップです。酸味が強いですが、今のお嬢様には合うと思いました」


 受け取った。一口飲むと、酸味が舌を刺して、目の奥がつんとした。


「お嬢様」


「なに」


「本当にそれでいいのですか」


 同じ問いを、もう一度。


 答えは変わらない。変えられない。


「——いいの」


 ローズヒップの酸味が、嘘の味に変わった気がした。


次話:「正しいルートへ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。