第20話「消費者のまま」
推し活ノートを再開して、2日が経った。
以前のように朝4時から焼き菓子を焼くことはしなかった。訓練場の塀にも登っていない。社交界の布教もしていない。ノートを開いて、白紙のページを眺めて、何も書けないまま閉じる。それを繰り返している。
再開と言っておいて、何もできていない。
薬草園のベンチに座って、ラベンダーの紫をぼんやり見つめていた。午前の光が葉の表面を白く照らしている。風が吹くたびに、母が植えた薬草たちがそよいで、青い匂いが鼻をくすぐる。
(推し活、再開したはずなのに。ペンが動かない)
理由はわかっている。
推しの足を引っ張ったという事実が、まだ胸の底に沈んでいる。マルガレーテに「消えるのは逃げだ」と言われて、エステルに「まっすぐでいい」と言われて、ノートを開くことはできた。でもそこから先——推しのために動くことが、怖い。
動けば動くほど、推しに迷惑をかけるかもしれない。
布教は機密漏洩に変えられた。差し入れは「知りすぎている」と不審がられた。推し活のすべてが、推しを追い詰める材料に変わった。
それなら。
(推しの人生に触れなければいい)
オタクの原則に立ち返る。推しは推し。私は私。画面の向こうから眺めるだけの存在。消費者。
前世では、それが当たり前だった。ゲームの画面を見て、推しの台詞を読んで、スクリーンショットを撮って、感想を書く。推しの人生に一切干渉しない。推しは推しの物語を生き、私はそれを受け取るだけ。
この世界に来て、距離がおかしくなった。推しが実在するから、手が届くから、触れられるから——消費者でいられなくなった。
だから戻るべきだ。消費者に。
(推しの人生に干渉してはいけない。オタクは消費者のまま、推しの幸せを祈るだけでいい)
ベンチから立ち上がった。膝の裏が冷えている。長く座りすぎた。
書斎に戻って、推し活ノートを開いた。ペンを持つ。今度は書ける。
『決断。推し活の方針を転換する。これまでのような能動的な推し活——差し入れ、布教、情報収集——は全て停止。推しの人生に干渉しない。消費者に戻る。塀の上から見守るのも、もうやめる。推しは推しの人生を歩く。私はその外にいる。
これがオタクとして正しいあり方。推しの幸せを一番に考えるなら、私は推しから離れるべき』
ペンを置いた。
インクが乾くのを待つ間に、もう一つ書くことがあると気づいた。
婚約。
政略婚約者という立場が、ディートリヒに利用される原因になっている。婚約者だから推しの弱点にされる。婚約者だから推しが庇おうとする。婚約を続けている限り、私の存在そのものが推しの足枷になる。
(婚約を辞退すれば——推しは自由になる)
ペンを取り直して、震える字で書き加えた。
『婚約辞退を申し出る。レオンハルト様の足を引っ張りたくない。これ以上推しの人生に干渉しない。消費者のまま、推しの幸せを祈る。それが、オタクとしての最後の推し活』
書斎の扉が開いた。
「お嬢様、お茶を——」
マルガレーテが盆を持って入ってきて、私の顔を見て、止まった。
「……何を書いたんですか」
「推し活ノートを更新しただけ」
「その顔で書く推し活ノートに、ろくなことは書いていないですね」
マルガレーテが盆をテーブルに置いて、私の隣に来た。ノートを覗き込む。もう隠さない。どうせこの人には全部筒抜けだ。
マルガレーテの目が文字を追う。表情が固くなっていく。
「……婚約辞退」
「ええ」
「本当にそれでいいのですか」
声が静かだった。いつもの辛辣さがない。それが逆に、この問いの重さを物語っている。
「いいとか悪いとかじゃない。推しのために必要なことよ」
「お嬢様のためではなく?」
「推しのため」
「お嬢様自身は——どうしたいんですか」
答えなかった。
答えたら、崩れる。
マルガレーテがしばらく私を見つめて、それからお茶のカップを差し出した。
「ローズヒップです。酸味が強いですが、今のお嬢様には合うと思いました」
受け取った。一口飲むと、酸味が舌を刺して、目の奥がつんとした。
「お嬢様」
「なに」
「本当にそれでいいのですか」
同じ問いを、もう一度。
答えは変わらない。変えられない。
「——いいの」
ローズヒップの酸味が、嘘の味に変わった気がした。
次話:「正しいルートへ」




