第19話「まっすぐが、刺さる」
宮廷の庭園。薔薇の回廊。
あの日と同じ場所で、エステルに会った。
今日は偶然だった。本当の偶然。王城に書類の補足資料を届けに来た帰り、回廊を歩いていたら——向こうから淡い金色の髪が走ってきた。
「セラフィーナ様ー!」
エステルが小走りで近づいてくる。白い薔薇のアーチの下を駆けてくる姿は、やっぱり絵になる。息を弾ませて、私の前で止まった。
「ごきげんよう、エステル嬢」
「ごきげんよう! あの、探してたんです!」
「私を?」
「はい! 最近、お見かけしなくて。茶会にもいらしていないって聞いて、お元気かなって心配で」
胸がちくりとした。
最近、社交の場に出ていなかった。布教活動が機密漏洩の疑いに変えられた以上、社交界での発言は控えている。推し活ノートも更新していない。
何もしていない日々が、もう1週間近く続いている。
「お元気ですよ。少し、家の用事が立て込んでいただけで」
「本当ですか? お顔色が——あの、ちょっと元気ないように見えます」
エステルの丸い目が、まっすぐ私を見ている。心配そうに。
(この子は本当に——悪意がない。一切ない)
「お散歩しませんか? お天気もいいですし、薔薇がちょうど見頃で——」
「……そうね。少しだけ」
断る理由が見つからなかった。
薔薇の回廊を並んで歩く。赤と白の薔薇が頭上でアーチを作り、花びらの甘い匂いが通り抜ける午後の風に乗っている。地面に落ちた花びらが、私たちの足元で音もなく潰れる。
エステルが隣で何か話している。天気のこと、聖女の仕事のこと、昨日の晩餐で出たデザートが美味しかったこと。たわいない話。
私は相槌を打ちながら、自分の内心の重さに気づいている。以前なら「推しの話をするチャンス!」と思っただろう。布教のタイミングを計り、エステルの反応を推し活ノートに記録しただろう。
今はそれができない。推しの話をすると、推しの足を引っ張ることに繋がるかもしれないから。
「セラフィーナ様」
「はい?」
エステルが足を止めた。薔薇のアーチの真下。白い花びらが一枚、ひらりと落ちてきて、エステルの肩に止まった。
「あの、一つ聞いてもいいですか」
「ええ」
「セラフィーナ様は——レオンハルト様のこと、好きなんですよね?」
足が止まった。
心臓が一拍、強く打った。
「……なぜ、そう思うのですか」
「だって」
エステルが、照れたように笑った。
「前にお話ししたとき、レオンハルト様のことを話すセラフィーナ様、すっごく嬉しそうだったんです。目がきらきらしていて。あんなにまっすぐ、人のことを語れるのってすごいなって思って」
「あれは、推し——えっと、尊敬の表現であって」
「好きですよね」
まっすぐだった。
エステルの言葉は、いつもまっすぐだ。回り道もしない。嘘もない。裏もない。ただ見たものをそのまま言葉にする。
だから——刺さる。
「わたし、実はずっと羨ましかったんです」
「羨ましい?」
「セラフィーナ様が。誰かのことを、あんなにまっすぐ好きでいられるのが」
エステルの声が、少しだけ小さくなった。薔薇のアーチの影が顔にかかって、いつもの明るい表情に翳りが差す。
「わたし、聖女なんです」
「ええ」
「聖女だから、みんなが優しくしてくれます。ユリウス殿下も、騎士団の方々も、お茶会のみなさんも。でも——」
エステルが唇を噛んだ。小さな仕草。この子がこんな顔をするのを、初めて見た。
「それって、わたしが好きだから優しくしてくれてるのか、聖女だから優しくしてくれてるのか。わからなくて」
(——あ)
ゲームの設定を思い出す。エステルの固有イベント。「聖女の孤独」。聖女としての力を持つがゆえに、人の好意が純粋なものかどうか見分けがつかない。だから本当の友人を作れない。
ゲームではこのイベントは、攻略対象が「聖女じゃなくても好きだ」と言うことで解決する。
でも今、攻略対象はここにいない。いるのは、悪役令嬢の私だけ。
「セラフィーナ様は違いました」
「え?」
「セラフィーナ様は、わたしが聖女だからって特別扱いしなかった。むしろ最初の頃は距離を取ろうとしていましたよね。それなのに、お話ししたらすごく普通に接してくれて」
(距離を取ろうとしていたのは、正規ルートのフラグを立てないためだった。普通に接したのは、悪役令嬢のフラグも立てないためだった。どちらもゲーム知識に基づく計算で、エステルのことを考えていたわけじゃ——)
「それで思ったんです。セラフィーナ様みたいに——まっすぐ好きでいられる強さが、わたしもほしいなって」
エステルがこちらを見る。丸い目が少し潤んでいて、でも笑っている。笑おうとしている。
「聖女だから好かれてるのかも、って怖がってないで。自分からまっすぐ好きだって言える人になりたいんです。セラフィーナ様を見ていると、そう思えるんです」
胸の奥で、何かがぐらりと揺れた。
エステルが私に求めているもの——それは「まっすぐ好きでいる強さ」。
でも私は今、その「好き」を名前で呼ぶことすらできていない。推し活だと言い張って、ガチ恋じゃないと否定して、推しの近くにいることが迷惑だと思い始めている。
まっすぐ、なんてほど遠い。
「エステル嬢」
「はい」
「……私は、あなたが思っているほどまっすぐではありませんわ」
「えっ」
「ぐるぐる考えて、言い訳して、逃げてばかりで。好きだと言える強さなんて、持っていない。今も——」
言葉が詰まった。
今も。推し活ノートが白紙のまま。推しの顔を見ることすらできない。「いなければよかった」という考えが胸に巣食っている。
全然まっすぐじゃない。
「セラフィーナ様」
エステルが私の手を取った。噴水のときと同じ、柔らかくて小さな手。
「ぐるぐる考えるのも、逃げるのも、全部含めて——それでもレオンハルト様のことを大切にしようとしている人は、まっすぐだと思います」
薔薇の花びらが、風に巻かれて二人の間を通り抜けた。赤い花びら。白い花びら。
「わたしは——セラフィーナ様が好きです。聖女だからじゃなくて。セラフィーナ様が、セラフィーナ様だから」
目の奥がじんと熱くなった。
この子は——本当にまっすぐだ。
私が推し活で鍛えた令嬢スマイルも、情報戦の駆け引きも、全部すり抜けて——ただまっすぐに、言葉を投げてくる。
「……ありがとう、エステル嬢」
「あっ、セラフィーナ様、泣いてますか?」
「泣いてません」
「目が赤いです」
「薔薇の花粉が——」
「花粉なら鼻ですよ、目じゃないです」
(この子にだけはツッコミの才能がある)
鼻をすすって、手の甲で目元を拭った。令嬢としてあるまじき所作。でもエステルは笑っている。くしゃっとした、飾らない笑顔。
「好きなんですよね?」
もう一度、エステルが聞いた。まっすぐに。容赦なく。
答えなかった。でも否定もしなかった。
薔薇の回廊を出て、エステルと別れた。
帰りの馬車の中で、窓の外の景色を見ていた。夕暮れの空が薄紫に染まっている。
マルガレーテが向かいの席で、何も言わずに私を見ていた。
「マルガレーテ」
「はい」
「……推し活ノート、久しぶりに開いてもいい?」
「もちろんです」
帰宅して、書斎で推し活ノートを開いた。白紙だったページに、ペンを走らせる。
『エステル嬢に聞かれた。「好きなんですよね?」。答えなかった。でも——否定もしなかった。これは進歩なのか後退なのか、自分でもわからない。
エステル嬢は、まっすぐ好きでいる強さがほしいと言った。私にはそんな強さはない。でも——推し活ノートを閉じたままにしているのは、もっと嫌だった。
推しは今日も、この世界のどこかにいる。推しが元気かどうか、確認したい。推しの訓練が順調かどうか、知りたい。
推し活を再開する。理由は——まだ、うまく言葉にできない』
次話:「消費者のまま」




