第18話「いなければよかった」
書面は2日で完成した。
情報ノートの内容を精査し、各情報の出どころを社交上の伝聞として再構成した書類。マルガレーテと二人で書斎に缶詰めになり、推し活の痕跡が一切残らないように一行ずつ検証した。
期限の朝、王城に提出。ユリウスは書面を受け取って、「確認する」とだけ言った。
結果はまだ出ていない。
でも——書類の問題は、もう本質ではなくなっていた。
伯爵邸の書斎で、私は情報ノートと推し活ノートを並べて見つめている。革表紙の2冊。この2年間の全記録。
ページをめくっていくと、自分がどれだけ推しの周辺に手を伸ばしてきたかが一目でわかる。
差し入れ。布教。訴えの調査。ディートリヒの情報収集。社交界の世論操作。
全部、推し活のつもりだった。推しの幸せのためにやっていた。
でも結果は——推しの足を引っ張っている。
布教活動は機密漏洩の疑いをかけられた。差し入れは推しに「知りすぎている」と不審がられた。訴えの調査は私自身の立場を危うくし、推しが庇おうとすれば推しの立場も危うくなる。
(私がいなければ——)
その考えが、じわりと滲むように広がった。
(私がいなければ、推しは平穏だった)
私がこの世界にいなければ。セラフィーナ・フォン・グラーフが前世の記憶を持たない普通の悪役令嬢だったら。断罪されて退場して、推しの人生に影響を与えることなく消えていれば。
ディートリヒが利用できる「弱点」は存在しなかった。
推しは純粋に実力で団長の座を目指せた。婚約者の問題で足を引っ張られることもなく。
(私がいるから——推しが苦しんでいる)
ノートを閉じた。閉じる手が震えている。
窓の外で、薬草園のラベンダーが揺れている。母が植えた花。推し活のために手入れを始めた庭。推しの好物の材料を育てていた場所。
全部——推しのためだと思っていた。
全部、推しに迷惑をかけていた。
「お嬢様」
マルガレーテが書斎に入ってきた。手には紅茶のカップ。でも私の顔を見て、盆ごとテーブルに置いて近づいてきた。
「……お嬢様、またその顔です」
「どんな顔」
「薬草園でうずくまっていたときと同じ顔。自分を責めている顔」
「責めてない」
「嘘が下手ですね」
マルガレーテが私の向かいの椅子に座った。テーブルの上のノート2冊を見て、眉を少し寄せる。
「何を考えていますか」
「……私がいなければ、レオンハルト様はもっと楽に生きられたんじゃないかって」
マルガレーテが黙った。長い沈黙。紅茶の湯気だけが、二人の間を漂っている。
「お嬢様。それは——」
「間違ってる?」
「間違っているかどうかではなく」
マルガレーテが言葉を選んでいる。慎重に。いつもの辛辣なツッコミとは違う、重さのある言葉。
「お嬢様がいなかったら、嫌がらせの訴えの矛盾は誰も見つけていません」
「それは——」
「ディートリヒの不正工作は、闇の中のままです。王太子殿下の調査も始まっていない。レオンハルト様の社交界での評判も、今ほど高くない」
「でも私が布教しなければ、機密漏洩の疑いもかけられなかった」
「ディートリヒは別の手を使っただけです。お嬢様がいなくても、あの人は副団長を攻撃する方法を見つけたでしょう。お嬢様を弱点として使えなければ、別の弱点を探しただけです」
正論だった。頭ではわかる。でも胸が追いつかない。
「マルガレーテ。でも——推しが庇ってくれたとき、推しの目に怒りがあった。あれは私のせいで——」
「あれはお嬢様のせいではなく、ディートリヒのせいです。レオンハルト様もそう思っているはずです」
「でも——」
「お嬢様」
マルガレーテの声が鋭くなった。
「自分を消すことで推しを守ろうとするのは、推し活ではありません」
言葉が刺さった。
「推し活は、推しの近くにいて推しを応援することです。お嬢様がいなくなったら、誰がディートリヒの不正を暴くんですか。誰が推しの功績を社交界に伝えるんですか。誰が朝4時からサブレを焼くんですか」
「サブレは関係ない——」
「関係あります。全部繋がっています。お嬢様が推し活を始めてから動いたこと全部が、推しのために動いている。一つだけ切り取って『迷惑をかけた』と言うのは、卑怯です」
マルガレーテの目が真っ直ぐこちらを射る。
「……卑怯?」
「ええ。自分を責めるのは、一番楽な逃げ方です。反省しているふりをして、本当の問題から目を逸らしている」
「本当の問題って——」
「ディートリヒをどうするか、です。お嬢様が消えたところでディートリヒは消えない。推しを守りたいなら、消えるのではなく——戦う方法を考えてください」
マルガレーテが紅茶のカップを私の前に押し出した。
「飲んでください。冷める前に」
カップを手に取った。紅茶の温かさが指に伝わる。一口飲むと、ローズヒップの酸味が舌にじんわりと広がった。
——マルガレーテの言うことは、いつだって正しい。
でも。
「いなければよかった」という考えは、紅茶を飲んでも消えなかった。胸の底に沈んだまま、静かに重い。
正しいかどうかじゃない。推しの顔に浮かんだ怒りの色が、まだ目に焼きついている。あの怒りを生んだのが自分の存在だという事実が、どうしても消えない。
ノートを本棚にしまった。
推し活ノートのページが、今日も白紙のままだった。
次話:「まっすぐが、刺さる」




