第16話「弱点という名前」
ディートリヒ・フォン・クラウスは、自室の執務机で報告書を読んでいた。
騎士団長の執務室は、宿舎の最上階にある。朝日が窓枠の影を書類の上に落としている。壁には歴代団長の肖像画が並び、その最後——空白のフレームが一つ。次の団長の肖像が入る場所。
報告書の内容は、レオンハルト・フォン・シュテルンの近況。
部下に命じて集めさせたものだ。副団長の訓練実績、部隊の練度、近況の行動記録。どれも公式の範囲内で取得できる情報。
問題は、もう一枚の報告書。
セラフィーナ・フォン・グラーフの行動記録。
「——面白い女だ」
ディートリヒは報告書の端をペンで叩きながら呟いた。
グラーフ伯爵令嬢。断罪保留中の悪役令嬢。レオンハルトの政略婚約者。
報告書によれば——この令嬢は、社交界の茶会を渡り歩いてレオンハルトの功績を布教している。それも、ディートリヒ自身が指揮した作戦について、レオンハルトの貢献を強調する形で。
さらに。嫌がらせの訴えに含まれる矛盾点を独自に整理し、王太子に提出している。訴えの証言者がクラウス家の関係者であることまで調べ上げている。
「伯爵令嬢の調査能力にしては、いささか逸脱していますな」
窓の外を見た。訓練場で副団長が新人を指導している姿が小さく見える。銀の髪が朝日に光っている。
レオンハルト・フォン・シュテルン。24歳。第一騎士団創設以来、最年少で副団長に就任した男。実力は認める。人望もある。部下の信頼も厚い。
だからこそ——制御しなければならない。
ディートリヒは20年、この組織にいる。若い頃は理想を語った。騎士とはこうあるべきだと。正義を守り、弱きを助け、王国に忠義を尽くすのだと。
入団して5年目の冬、北方の村が盗賊に襲われた。ディートリヒは救援を具申した。当時の団長は却下した。「予算がない」と。村は焼かれ、住民は散り散りになった。ディートリヒは再び具申した。団長は言った。「君は有能だ。有能な人間は、どこに力を使うべきか考えろ」。翌年、ディートリヒは昇進した。村のことは報告書に残らなかった。
あの日から、理想という言葉を口にしなくなった。組織とは、理想では動かない。人事と予算と権力のバランスで動く。理想を掲げた若者は、組織の壁に弾かれて消えていく。消えなかった者だけが、上に立つ。ディートリヒは消えなかった側の人間だ。
レオンハルトは——消えない側の人間だ。実力で壁を突破する。それは称賛に値するが、組織の長としては歓迎できない。
次期団長にレオンハルトが就けば、ディートリヒの影響力は消える。退役後の処遇も変わる。宰相との繋がりも意味をなさなくなる。
政治的生存。それがディートリヒの全てだ。
——しかし、正面からの妨害は難しくなっている。
嫌がらせの訴えは裏を取られ始めている。社交界でのレオンハルトの評判は上がる一方。王太子の調査もクラウス家に向き始めている。
その全てに、あの令嬢の手が入っている。
「グラーフ令嬢。あの女は——副団長の弱点だ」
弱点。
レオンハルト・フォン・シュテルンには、目立った弱みがない。騎士として潔白、私生活も清廉。金にも女にも興味を示さない。攻撃の糸口がない。
だが——婚約者がいる。
しかもその婚約者は、断罪保留中の悪役令嬢。社交界での評判は悪い。噂だけで傷がつく立場。
婚約者を攻撃すれば、レオンハルトに間接的なダメージを与えられる。これまでの訴えはその一環だったが、単なる中傷では効果が薄くなってきた。王太子が訴えの裏を取り始めている以上、同じ手法は使えない。
別の角度が必要だ。
ディートリヒは報告書の一節に目を留めた。
『グラーフ令嬢、社交界においてレオンハルト副団長の功績を組織的に流布。その情報の精度は、騎士団内部の機密に近い水準』
——これだ。
グラーフ令嬢の布教活動を「政治工作」として告発する。
レオンハルトの功績を社交界で広めていることは事実。その情報が騎士団の内部情報に基づいていると主張すれば、「副団長の婚約者が機密を外部に流出させている」という構図が作れる。
令嬢自身が調べた情報だとしても、その精度の高さ自体が疑惑の材料になる。一介の伯爵令嬢が知りえない情報を持っている——つまり副団長から漏洩されているのではないか、と。
レオンハルトが否定しても、疑惑は残る。むしろ、守ろうとすればするほど「婚約者との癒着」が強調される。
守ること自体が、弱みになる。
ディートリヒはペンを取り、新しい書類に向かった。王太子宛の上申書。「騎士団の機密情報が外部に漏洩している可能性について」。
弱点という名前がついた女。
彼女を叩けば、副団長が揺らぐ。副団長が守ろうとすれば、もっと揺らぐ。
穏やかな筆跡で、文字を綴っていく。微笑を浮かべたまま。
窓の外で、銀の髪が朝日に光っている。
次話:「推し活の痕跡」




