第15話「ガチ恋じゃない」
翌日、私は薬草園にいた。
母が遺した小さな庭。ラベンダーとカモミールとセージが風に揺れて、青い匂いが鼻の奥に染みる。膝を抱えて、薬草棚の陰に座り込んでいた。令嬢がする座り方ではない。でも誰も見ていないから構わない。
昨夜は眠れなかった。
推し活ノートを開こうとして、ペンを持って、何も書けなくて閉じた。
「大切だと、思っています」。
あの言葉が頭の中でぐるぐる回っている。推しの前で感情を漏らした。オタクとして最大の失態。推しの人生に干渉してはいけないのに。推しは推しであって、私のものではないのに。
(何やってるんだ私は。推しに「大切」なんて言って、逃げて。あんな中途半端なこと言うくらいなら、いつも通り「偶然です」って笑っていればよかったのに)
「お嬢様」
薬草棚の向こうから、マルガレーテの声が聞こえた。
「ここにいらしたんですか。朝から姿が見えないので探しました」
「……ごめん」
「ごめんではなく、朝食も摂っていないでしょう。2時間前にヴィルヘルムが用意した食事が、手つかずのまま冷めています」
マルガレーテが薬草棚を回り込んで、私の前に立った。腕を組んで、見下ろしている。春の陽光が彼女の背後から差して、表情が逆光で読みにくい。
「お嬢様、何がありましたか」
「……なにも」
「嘘が下手ですね。レオンハルト様と同じことをおっしゃいますよ、嘘が下手だと」
胸がずきんと鳴った。
マルガレーテが私の隣に——薬草棚の陰の地面に、ドレスのことなんか気にもしない様子でしゃがんだ。侍女がこんな座り方をするのも、多分マルガレーテくらいだ。
「レオンハルト様に何か言われましたか」
「……『誰だ、お前は』って」
「はい」
「私のことを知りすぎている、と」
「それで?」
「『大切だと思っています』って、言った。言って、逃げた」
マルガレーテが少し黙った。ラベンダーの茂みが風に揺れて、紫の小花が二人の間に影を落とす。
「それは——告白ですか」
「違う」
「違わないと思いますが」
「違う。あれは告白じゃない。推し活の延長線上にある感情の表明であって——」
「お嬢様」
マルガレーテの声が、いつもの辛辣さとは少し違う。静かで、まっすぐな声。
「恋では?」
息が止まった。
薬草園の音が遠くなる。風の音、虫の声、ラベンダーの匂い。全部が遠のいて、マルガレーテの言葉だけが耳の中で反響する。
「恋じゃない」
「では何なんですか」
「推し活。推しを推す行為。推しの幸せを願い、推しの魅力を布教し、推しの好物を作り、推しの敵を調べ、推しの健康を守る。それが推し活」
「お嬢様。全部、恋する人間がすることと同じですよ」
「違う」
「どこが」
「推し活は——一方通行でいい。見返りを求めない。推しが幸せなら、それだけでいい。恋は返してほしいと思うものでしょう。私は推しに何も返してほしくない」
マルガレーテが膝の上で手を組んだ。カモミールの茎が、その手の横でそよいでいる。
「お嬢様は、本当にそう思っていますか」
「……」
「レオンハルト様に『うまい』と言われて、何日もノートに書いていましたね。『ありがとう』の一言で心拍数が200を超えたと、自分で記録していましたね。あれは——返事をもらって嬉しかったからでは?」
「それは——推しからの反応は嬉しいに決まってる。でもそれと恋は——」
「同じでは?」
「違う」
声が強くなった。自分でもわかるくらい、必死な声。
マルガレーテが黙って、私を見ている。辛辣でも呆れでもない目。ただ見ている。
「……マルガレーテ。私がガチ恋だったら、推し活が壊れるの」
声が小さくなっていく。
「ガチ恋だったら、推しの隣にいたくなる。推しに振り向いてほしくなる。推しの人生に入り込みたくなる。それはオタクとして——推しの人生を尊重するオタクとして、してはいけないこと」
「お嬢様——」
「推しはゲームのキャラクターだった。私は画面の向こうから推していた。それが正しい距離。この世界に来ても、その距離を守りたかった。推しの隣じゃなくて、推しを見守る場所に——」
声が詰まった。鼻の奥が熱い。目の縁がじわりと滲む。
(泣くな。泣いたら認めることになる。ガチ恋じゃない。私はただの推し活民で——)
「お嬢様」
マルガレーテの手が、私の手に重なった。乾いていて温かい手。侍女の手。10年間この手に支えられてきた。
「ガチ恋だろうと推し活だろうと、お嬢様がレオンハルト様を大切に思っていることは変わりません。名前をつける必要がありますか?」
「……必要がある。名前をつけないと、私が何をしているかわからなくなるから」
「では、今のままでいいですよ。推し活で」
マルガレーテが立ち上がって、スカートの土を払った。手を差し伸べてくる。
「ただし一つだけ」
「なに」
「嘘が下手なのは、お嬢様もレオンハルト様も同じです。お二人とも、自分の気持ちに嘘をつくのが、壊滅的に下手」
差し出された手を掴んで、立ち上がった。
膝に土がついている。スカートにラベンダーの花が一つ張り付いている。マルガレーテが無言でそれを摘まんで取ってくれた。
「朝食を召し上がってください。冷めたスープを温め直させます」
「……うん」
「それから、推し活ノート。書けなかったんでしょう? 無理に書かなくていいです。書きたくなったら書けばいい」
マルガレーテが先に歩き出す。薬草園の小道を、背筋を伸ばして。
私はその背中を追いながら、鼻をすすった。
ガチ恋じゃない。
——本当に?
もう一度、その問いが頭をよぎる。前にも同じことを考えた。推し活ノートの最初のページに書いた日。それと同じ問い。
答えは、まだ出せない。
次話:「弱点という名前」




