第14話「誰だ、お前は」
城壁の見晴台に、推しがいた。
見晴台は王城の外壁の一角にある展望スペースで、高い位置から王都の全景を見渡せる。夕方の巡回ルートに含まれていることは、推し活ノートの行動パターン分析で把握済み。
——把握済みなのだが、今日は来るつもりではなかった。
ディートリヒとの遭遇の後、頭を冷やす場所が欲しくて城壁沿いを歩いていたら、見晴台に出てしまった。風に当たりたかっただけ。
そこに推しがいた。
レオンハルトは石造りの胸壁に片手をついて、沈む夕日を眺めていた。銀の髪が橙の光を受けて淡い金色に見える。外套を脱いで胸壁に掛けている。風が吹くたびに外套の裾と、シャツの襟元が揺れる。
(推しの黄昏れシーン。ゲームにないスチル。実在する推しだけが見せてくれる、この世界だけの推し)
引き返すべきだった。推しのプライベートな時間に踏み込むべきではない。オタクは推しの境界線を守るもの。
でも足が動かなかった。
「……グラーフ嬢か」
気配で気づかれた。レオンハルトが振り返る。碧の目が夕日を映していて、いつもより暖かい色に見える。
「ご、ごきげんよう。すみません、お邪魔でしたら——」
「構わない」
レオンハルトが夕日の方向に視線を戻した。立ち去れとは言わない。かといって近くに来いとも言わない。
少し離れたまま、私も胸壁のそばに立った。風が強い。見晴台の高さから見下ろすと、王都の屋根がオレンジ色のパッチワークのように広がっている。遠くで鐘が鳴る。
沈黙が流れた。不快ではない沈黙。風の音と、遠い街の音だけが埋めている。
「グラーフ嬢」
「はい」
「俺に聞きたいことがある」
レオンハルトの声がいつもと違う。硬い敬語が消えて、ただ静かな声。疲れているのか、それとも——考えごとの最中なのか。
「お前は、俺の好物を知っている」
「……偶然が重なりまして」
「俺の行動パターンを把握している。訓練の曜日、休憩の場所、巡回のルート」
風が一段強く吹いた。髪が顔にかかる。払いのけながら、何も言えずにいる。
「俺が体調を崩したとき、薬草の調合を完璧にこなした。俺の好む味に調整されていた」
「あれは——」
「社交界で、俺の功績を布教している。戦術の詳細まで正確に」
レオンハルトがこちらを向いた。碧の目が、夕日の光から離れて影に入る。暗い碧。鋭い碧。
「お前は——俺のことを知りすぎている」
心臓が凍った。
嘘に鋭い人。ゲームでもそういう設定だった。洞察力が高く、相手の嘘を看破する。54回クリアして、その能力を一番よく知っているのは私。
知っているからこそ——この瞬間が来ることも、予感していた。
「グラーフ嬢。俺はお前のことを理解していない。婚約者として何年も、同じ場にいて、しかし俺はお前のことを何も知らない」
レオンハルトが一歩近づいた。距離が半分になった。
「なのにお前は、俺の全てを知っているかのように振る舞う」
風が止んだ。
見晴台の上に、声だけが残る。
「誰だ、お前は」
その問いが、真っ直ぐ突き刺さった。
——答えられない。
前世は乙女ゲーオタクです。あなたのことは7年間推し続けて全台詞を暗記しています。この世界はゲームの世界で、あなたはゲームのキャラクターで——
言えるわけがない。
言ったところで信じてもらえない。そしてそれ以上に、言ってはいけない。推しにとって自分の人生がゲームの中の物語だったと知ることは——残酷すぎる。
「私は——」
声が出ない。喉が詰まっている。
レオンハルトの碧い目が、私を見ている。怒りではない。困惑でもない。ただ、理解したいという真摯な目。答えを待っている目。
その目に嘘をつきたくない。でも本当のことは言えない。
「私は——あなたのことが」
口が動く。言葉が勝手に——
(止まれ。止まれ私の口。今ここで「好きです」なんて言ったら推し活が崩壊する。オタクは推しに感情をぶつけてはいけない。推しの人生に干渉してはいけない)
「——大切だと、思っています」
それだけしか言えなかった。
レオンハルトが目を見開いた。ほんの一瞬。それから表情が戻って、視線が逸れた。
「……それは」
「す、すみません、失礼しますわ——!」
逃げた。
見晴台から、全速力で逃げた。石段を駆け下りて、城壁の通路を走って、息が切れるまで走った。
(逃げた逃げた逃げた。推しに「誰だ」と聞かれて「大切」って答えて逃げた。最悪の対応。100点満点中3点。推し活の作法に反する。推しに感情を見せてはいけないのに)
城壁の陰で膝に手をついて、荒い息を吐く。石壁が日没の余熱で温かい。その温もりと、走って火照った体の熱が混ざって、頬を燃やす。
(でも——嘘はつけなかった。推しの前で、あの真っ直ぐな目の前で、嘘はつけなかった)
マルガレーテは迎えの場所にいなかった。伝えていた時間より早く城を出てしまったから。一人で馬車を拾って帰る間、窓の外の夕闘れが暗くなっていくのを見ていた。
推し活ノートには、何も書けなかった。
次話:「ガチ恋じゃない」




