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悪役令嬢ですが推し活が忙しくて悪事をする暇がありません  作者: 夜凪 蒼


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第13話「穏やかな圧」

宮廷の回廊は、夕方になると西日が壁のタペストリーを燃えるような橙色に染める。


 私はその回廊を歩いていた。今日は茶会ではなく、王城の図書室で古い記録を調べる用事があった。推し活の一環——ではなく、ディートリヒの過去の経歴を辿るため。情報ノートの空白を埋める作業。


 ディートリヒ・フォン・クラウス。第一騎士団長。38歳。ゲームでは「背景設定」として名前が出るだけのキャラ。この世界では、推しの上官にして、推しの昇進を阻む最大の障害。


 図書室で調べたことがある。ディートリヒは20年前、若手騎士の中で最も将来を嘱望されていた人物だったらしい。国境紛争で功績を挙げ、異例の速さで昇進し、理想を語る熱い若者だったという記録が残っている。


 20年前の彼と、今の彼の間に、何があったのか。


 ——と、考え事をしながら角を曲がったとき。


「これはこれは」


 声が先に来た。穏やかで、柔らかくて、しかし芯に鋼の入った声。


 ディートリヒ・フォン・クラウスが、回廊の窓際に立っていた。


 黒髪に灰色が混じった壮年の男。整った顎鬚。背が高く、騎士団の礼装が隙なく整っている。微笑んでいる。いつも微笑んでいる、この人は。目が笑わないまま。


「グラーフ伯爵令嬢。このような場所でお会いするとは」


「ごきげんよう、ディートリヒ閣下。偶然ですわね」


(偶然ではない。この人は偶然を装って人に会う。私と同じことをする。だから信用してはいけない)


「図書室にご用事でしたか。伯爵令嬢が古い記録にご興味とは、ご勉強熱心ですな」


 ——見られていた。


 図書室に入ったところを、確認されていた。あるいはその前から、私の行動を把握していた。


 背筋に冷たいものが走る。でも顔には出さない。推し活で鍛えた令嬢スマイルの厚みをなめないでほしい。


「少々、家の歴史を調べておりまして。古い交友関係の記録などを」


「ほう。歴史好きとは。——私も若い頃は、騎士団の記録を読み漁ったものです。栄光の記録は読んでいて心が躍りますが、人事の記録は退屈でしょう?」


 最後の一文が、さりげなく刺さった。


 人事の記録。私が図書室で調べていたのは、まさにそれ。ディートリヒの昇進記録、異動歴、関連する人事決裁の記録。


(この人は知っている。私が何を調べていたか、おおよその見当がついている)


「人事の記録にも、興味深い物語がございますわ。努力と功績で道を切り拓いた方々の記録は、特に」


 笑顔のまま返した。ディートリヒの表情は変わらない。穏やかな微笑のまま。


「さようですか。——ところで、令嬢」


 ディートリヒが一歩近づいた。回廊の西日が、彼の影を長く伸ばす。


「レオンハルト副団長とは、親しくしていらっしゃるようで」


「婚約者ですので」


「ええ、ええ。婚約者として当然のことですな。しかし最近——副団長のことを社交界で大変お褒めになっている、と耳にしまして」


 空気が変わった。


 ディートリヒの微笑はそのまま。声の温度もそのまま。でも回廊の空気が、ほんの少し重くなった。


「婚約者の美点を語るのは、令嬢の嗜みですわ」


「嗜みにしては、随分と組織的な印象を受けますな。茶会を渡り歩き、令嬢方にご自身の言葉で副団長の功績を語る。——それも、私の担当した作戦について、副団長の貢献を強調する形で」


(バレている。布教活動の中身まで把握されている)


「お褒めの言葉をいただいているのでしたら、婚約者として光栄ですわ」


「褒めていますとも。令嬢の外交手腕は、一介の伯爵令嬢には勿体ないほどだ」


 褒め言葉の形をした威嚇。穏やかな口調で投げられる牽制球。


 ディートリヒの灰色がかった目が、微笑の奥からこちらを見ている。


「令嬢。一つ、老婆心ながら申し上げてもよろしいですかな」


「どうぞ」


「社交界の評判は、風のようなものです。吹かせるのは容易い。けれど、風を止めるのはもっと容易い。しかも——風を吹かせた者が、風で一番傷つくこともある」


 微笑のまま。穏やかなまま。


 脅しだった。柔らかい声と紳士的な所作で包まれた、明確な脅し。


「ご忠告、痛み入りますわ」


「いえいえ。お若い令嬢の将来を案じただけのこと。——では、失礼」


 ディートリヒが会釈して歩き去る。礼装のブーツが回廊の床を踏む音が、規則正しく遠ざかっていく。


 その音が消えるまで、私は動けなかった。


 足が、ほんの少し震えていた。


(——怖い)


 認めたくないが、怖かった。あの穏やかな声の中にある圧は、社交界のどの令嬢の嫌味とも質が違う。政治を動かしてきた人間の圧。情報で人を追い詰める技術を持つ人間の圧。


 でも——怖いからといって退くつもりはない。


 この人が推しに圧をかけている。推しの肩を強張らせている。嫌がらせの訴えを仕組んで私を道具にし、推しの昇進を妨害している。


(推しの敵。排除対象)


 震える足で、歩き出す。


 伯爵邸に戻ると、書斎でマルガレーテが待っていた。私の顔を見て、すぐに察したらしい。


「何かありましたね」


「ディートリヒに会った。回廊で」


「偶然ですか」


「向こうは偶然を装っていたけれど、図書室での私の行動を把握していた」


 マルガレーテの表情が引き締まる。


「何を言われたんですか」


「布教活動を知っているわよ、と。遠回しに。それと——」


 窓から夕風が入ってきて、情報ノートのページがめくれそうになる。手で押さえた。


「止めようと思えば止められるぞ、という脅し」


 マルガレーテが黙った。眉の間に深い皺が寄っている。


「お嬢様。ここからは慎重にいくべきです」


「わかっている」


「本当に?」


「……わかっている。この人は、今まで相手にしてきた誰とも違う」


 情報ノートを開いて、今日のやり取りを一字一句記録する。ディートリヒの言葉遣い、表情の変化、立ち位置、声の温度。全てが情報。


 最後の行に、こう書いた。


『ディートリヒ・フォン・クラウス。穏やかな圧。笑顔のまま人を追い詰める技術を持つ。推しの敵としての脅威度、引き上げ。しかし——20年前の記録にあった理想主義の騎士と、今の彼が同一人物であることを忘れないこと』


 ペンを置いて、薬草園の方角を見た。ラベンダーの匂いが、かすかに届く。


 推しの敵が、こちらを見ている。


 ならばこちらも——笑顔のまま、見返す。


次話:「誰だ、お前は」

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