第10話「ヒロインがフラグを折ってくる」
宮廷の中庭。噴水の周りにベンチが並ぶ休憩所で、私は推し活ノートの暗記作業をしていた。
ノートそのものは持ち歩けない。万が一落としたら社会的な死——いや、物理的な死かもしれない。「レオンハルト様の眉間の皺は7パターンあり、それぞれ意味が異なる」などという記述が世に出たら、悪役令嬢どころの騒ぎではない。
だから暗記する。推し活ノートの内容を脳に焼き付けて、いつでも引き出せるようにする。デジタルストレージのないこの世界では、オタクの脳みそが最強の記録媒体。
「セラフィーナ様!」
噴水の向こうから、明るい声が飛んできた。
淡い金色の髪。まるい目。白いブラウスに薄青のスカート。走ってくる足音が回廊の床に軽く弾む。
エステル。
(ヒロイン、接近中——!)
「ごきげんよう、エステル嬢」
「ごきげんよう! あのあのっ、実は折り入ってご相談が——」
エステルが息を弾ませたまま、私の隣にすとんと座った。噴水の水しぶきが霧のように漂って、エステルの金髪にきらきらと光る粒を散らす。この子は意味もなく画になる。ヒロインの才能。
「ご相談?」
「はい! あの、レオンハルト様のことなんですけど——」
心臓が跳ねた。
「レオンハルト様がですね、最近お元気がないように見えまして」
(推しが元気ない? いつ? どこで? 何時何分? 詳細を)
「先日、訓練場の近くを通りかかったとき、すごく疲れたお顔をされていて。それで、わたし思ったんです。セラフィーナ様が元気づけてくださったらいいんじゃないかなって!」
「……は?」
「だって婚約者様ですし! セラフィーナ様、レオンハルト様のこと大好きですよね! 前にお話ししたとき、すっごく嬉しそうにレオンハルト様のことを語ってくださいましたもの!」
(前回の会話で布教トークのテンションを読み取られていた)
「あの、エステル嬢。大好きというのは語弊がありまして——」
「それでですね! 今日、レオンハルト様が午後から城壁の巡回に出られると伺ったので、ちょうどいいかなって。セラフィーナ様をお連れしようと思いまして!」
エステルが私の手を掴んだ。柔らかくて小さな手。善意に満ちた握力。
「お連れする、とは」
「レオンハルト様のところに!」
(ヒロインがマッチングしようとしている。正規ルートのヒロインが、悪役令嬢を攻略対象のもとに送り込もうとしている。何このバグ)
「エステル嬢、あの、大丈夫です。私は別に——」
「あっ、いました! レオンハルト様ー!」
エステルが噴水越しに叫んだ。中庭の奥、回廊の手前を歩いていた銀髪の人影がこちらを向く。
(嘘でしょ)
レオンハルトが歩いてくる。巡回前の移動中だったらしく、騎士団の正装に外套を羽織っている。外套の裾が歩くたびに揺れて、午後の日差しに銀の髪が白く光る。
(推しが来る。推しが近づいてくる。まだ10メートル。8メートル。5メートル——)
「レオンハルト様! セラフィーナ様がお話したいことがあるそうです!」
「ないです」
「えっ」
「ないです。エステル嬢、私は何も——」
「……グラーフ嬢」
レオンハルトが数メートル先で足を止めた。碧い目が私を捉える。
「呼んだか」
「呼んでないです。エステル嬢が——」
「セラフィーナ様、レオンハルト様がお呼びですよ!」
「呼んでないが」
レオンハルトが眉をわずかに寄せた。眉間の皺パターン3番。困惑。
エステルは満面の笑みで、私たちの間に立っている。噴水の水音が場の沈黙を埋めている。午後の風が、エステルの金髪と推しの銀髪を同時に揺らす。
「あの、エステル嬢」
「はい!」
「これはどういう状況でしょうか」
「仲良しのお二人が、もっとお話しできたらいいなって思いまして!」
エステルの目に曇りはない。純粋な善意。ヒロインの善意は、時として爆弾になる。
レオンハルトがこちらを見ている。碧い目。2メートルの距離。近い。いつもは差し入れを渡してすぐ逃げるから、こうして正面から見つめ合う時間がない。
(推しの顔が近い。近い距離で推しの顔面を直視している。睫毛が長い。碧の中にほんの少し灰色が混じっている。虹彩の模様が——データ収集している場合か)
「……グラーフ嬢。体調はどうだ」
「え?」
「先日、薬草茶を持ってきてくれただろう。あの後、無理をしていないか」
(推しが、私の体調を、気にしている——?)
脳が止まった。
完全に止まった。推しに心配されるという概念が処理できない。推しは心配される側であって、する側ではない。オタクの心配は推しに向かう一方通行であるべきで、推しからオタクへの逆流は想定外のエラー。
「だ、大丈夫ですわ。ありがとう、ございます」
声が震えている。令嬢口調が瀕死。
「わあ!」エステルが両手を合わせた。「レオンハルト様、優しいですね! セラフィーナ様のこと心配されてるんですね!」
レオンハルトの耳の端が、ほんのわずかに赤くなった。
(え、推し、耳赤い? 気のせい? 気のせいじゃない? 光の加減? いや噴水の水しぶきが肌に反射して——違う、赤い。推しの耳が赤い)
「心配などしていない。聞いただけだ」
「聞くのは心配だからですよ!」
エステルが笑う。屈託のない笑顔。この子は天然の起爆装置だ。
レオンハルトが視線を逸らした。外套の襟に手を伸ばして、存在しない皺を直している。
私は立っているのがやっとだった。心臓がうるさい。噴水の音より、自分の心拍のほうが大きく聞こえる。
「そ、それでは、巡回のお邪魔をしてはいけませんので——」
「あっ、もう行っちゃうんですか?」
「ええ。用事がありますので」
「えー、残念です。でもまたお話ししてくださいね、お二人とも!」
エステルが手を振る。私は令嬢らしく会釈して——令嬢らしくできていたかは自信がない——足早にその場を離れた。
中庭を抜けて、回廊に入って、誰もいない柱の影で立ち止まる。
額に手を当てた。冷や汗がじわりと滲んでいる。
(ヒロインが、フラグを、折ってくる)
ゲームでは、エステルは攻略対象との恋愛フラグを立てる存在。なのにこの子は、悪役令嬢である私と推しの距離を縮めようとしている。正規ルートを自分で壊しに来ている。善意で。笑顔で。
しかも推しは——私の体調を聞いてきた。差し入れの後の、私のことを。
心臓を押さえて、深呼吸をした。
推し活ノートに書くことが、また増えた。
次話:「近い。近い。」




