第9話「5時間の予習」
異変に気づいたのは、訓練場に推しの姿がなかったからだった。
いつもの火曜日、いつもの時間に塀の上——マルガレーテには「せめて見学用の観覧席を使ってください」と言われたが塀の上が最適ポジションなので譲れない——に座って訓練場を見渡すと、銀の髪がどこにもない。
(推しが、いない)
推し不在の訓練場ほど虚しいものはない。砂塵と金属音だけが残る、推しのいない世界。意味がない。全てに意味がない。
塀を降りて、マルガレーテに聞いた。
「レオンハルト様が訓練場にいないの」
「はい」
「なぜ」
「お嬢様、私は騎士団の関係者ではありませんが」
「調べて」
「……わかりました」
マルガレーテは有能な侍女である。30分後には情報を持って戻ってきた。
「レオンハルト様、体調を崩されて宿舎で休養中だそうです」
(推しが!!!体調不良!!!)
血の気が引いた。
推しが病気。推しが苦しんでいる。推しが宿舎のベッドで一人で横になっている。ゲームにこのイベントはなかった——いや、あった。レオンハルトルートの中盤で「軽い風邪をひく」サブイベントがある。エステルが看病に来て好感度が上がるイベント。
だけどそんなゲームのシステムの話はどうでもいい。推しが体調を崩している。今。この瞬間。
「症状は」
「熱があるそうです。悪寒と頭痛も」
「薬は」
「騎士団の医務官が診ているそうですが——」
「足りないわ」
踵を返した。向かう先はグラーフ伯爵邸の薬草園。母が遺した小さな庭。
薬草園に着くと、午後の光が薬草の葉を透かしていた。ミント、カモミール、セージ、エルダーフラワー——母が丹精込めて育てた薬草が、今も庭師の手入れで青々と茂っている。膝をついて土に触れると、湿った土と薬草の青い匂いが鼻をくすぐる。
(熱、悪寒、頭痛。エルダーフラワーとリンデンの組み合わせが発汗作用に効く。カモミールで鎮痛と鎮静。ミントを少し加えて清涼感を——)
待って。
私、薬草の調合なんて知っていただろうか。
前世の知識にはない。ゲームの知識にも——いや、レオンハルトルートのサブイベント「薬草を届ける」の選択肢に、正解の調合レシピが書いてあった。エルダーフラワー、リンデン、カモミール。ゲームのテキストで読んだレシピをそのまま覚えている。
でもゲームの選択肢を選ぶのと、実際に薬草を摘んで調合するのは全く別の話。
——だから、昨晩予習した。
レオンハルトの体調不良イベントがそろそろ発生する時期だと推し活ノートの時系列表で予測していたので、伯爵邸の書庫から薬草図鑑を引っ張り出して、5時間読み込んだ。深夜1時から明け方の6時まで。各薬草の効能、調合の配分、煎じ方の温度と時間。全部ノートに書き写した。
(推しの一大事に備えて予習するのは当然のこと。テスト前に教科書を読むのと同じ。オタクにとって推しの健康は最優先事項)
薬草を摘んで、厨房へ走る。
エルダーフラワーの白い花を乾燥させたものと、リンデンの葉。カモミールの花を軽く潰して布の袋に入れ、沸かした湯で煎じる。昨晩の予習通りの手順。温度は沸騰した直後に火を止めて3分待つ。配分はエルダーフラワー2に対してリンデン1、カモミール半分。
煎じている間に、もう一つ。昨晩の予習で見つけた処方——喉が痛い場合のために、セージの煎じ液も別に用意しておく。症状に合わせて選べるように。
薬草茶が出来上がったとき、厨房の入り口でヴィルヘルムが立っていた。
「お嬢様」
白髪の老執事が穏やかに微笑んでいる。手には保温用の布袋と、籠。籠の中にはすでに——焼き菓子の包みが入っている。
「ヴィルヘルム、それは」
「差し入れ用のバターサブレを包んでおきました。レオンハルト様の宿舎までお持ちになるのでしょう?」
「……頼んでないです」
「ええ。ですがお嬢様が薬草園に走っていかれたのを拝見しまして。レオンハルト様のご体調のことは、先ほど使いの者から」
「……」
「お嬢様は、いつも走っていかれますね。レオンハルト様のことになると」
ヴィルヘルムの目尻が下がる。穏やかで、何もかも分かっているような笑みで。この老執事は何も聞かず、何も問わず、ただ先回りで支度をしてくれる。母の代からこの家にいる人。
「……ありがとう、ヴィルヘルム」
「いってらっしゃいませ」
薬草茶の入った保温容器と焼き菓子を持って、騎士団宿舎へ向かった。
宿舎の受付で事情を話すと、医務官が出てきた。
「副団長は軽い風邪ですが、発熱がありまして。面会は——」
「こちらを差し入れに参りましたの。薬草茶ですわ。エルダーフラワーとリンデンとカモミールを煎じたものです。発汗と解熱に」
医務官がまじまじと保温容器を見た。
「……調合が的確ですね。薬学をお学びで?」
「少々、嗜みがございまして」
(5時間の嗜み)
レオンハルトの部屋の前まで案内された。扉をノックする。
「……誰だ」
声がかすれている。いつもの硬い声が少しだけ低く、弱々しい。
(推しの声が弱ってる。推しがつらそう。胸が痛い)
「セラフィーナ・フォン・グラーフですわ。薬草茶をお持ちしました」
沈黙。それから布が擦れる音がして、扉が薄く開いた。
レオンハルトが立っている。銀の髪がいつもより乱れていて、頬に薄く赤みが差している。碧い目が少しぼんやりと潤んでいる。
(推しの寝起き顔。推しの病み顔。推しが熱で頬を赤くしている。推しが。無理。この光景を脳に焼き付けたい。いや推しの体調が最優先。萌えている場合ではない。でも推しの寝起き顔——やめろ私)
「……なぜここに」
「偶然、薬草茶が余りまして」
「偶然か」
「ええ」
「……もういい。入れ」
部屋に入ると、簡素な室内だった。騎士団の宿舎らしく、必要最低限の家具しかない。ベッドと机と椅子と、壁に掛かった剣。窓から入る風が、汗の匂いと微かな薬の匂いを運んでいる。
薬草茶を注いでカップに入れ、レオンハルトに渡す。
「エルダーフラワーとリンデンとカモミール。発汗を促して熱を下げます。苦いかもしれませんが——」
「……苦くない」
レオンハルトが一口飲んで、少し驚いた顔をした。
「飲みやすいな」
「蜂蜜を少し加えましたので」
(推しが蜂蜜好きなの知ってるから。ゲームのテキストに書いてあったから。もう偶然とは言わない。言わないけど理由も言わない)
「……グラーフ嬢」
「はい」
「薬草の調合を学んだのか」
「少し」
「いつ」
「……最近」
レオンハルトの碧い目が、熱で潤んだまま私を見ている。体調が悪いはずなのに、その視線は鋭い。
「お前は——」
何かを言いかけて、やめた。カップの中の薬草茶を見つめて、もう一口飲む。
「……うまい。ありがとう」
(推しの『ありがとう』!!!推しが私に感謝の言葉を!!!しかも体調悪いときの弱った声で!!!ギャップ!!!)
「お大事になさってくださいませ。薬草茶のお代わりも保温容器に入れてありますので」
「……すまない」
「焼き菓子もありますが、喉が痛い場合は無理なさらず」
「いただく」
(体調悪くても食べてくれるんですか推し!!!)
部屋を出た。廊下に出た瞬間、壁にもたれかかって息を吐いた。
心臓がうるさい。推しの部屋に入った。推しの寝起き顔を見た。推しに薬草茶を飲んでもらった。推しが「うまい」と言った。推しが「ありがとう」と言った。
情報量が多すぎて脳が処理できない。
宿舎を出たところで、マルガレーテの代わりにヴィルヘルムが迎えの馬車の傍に立っていた。
「お嬢様、いかがでしたか」
「飲んでくれた。おいしいって」
「それはようございました」
ヴィルヘルムがにこりと笑って、馬車の扉を開ける。
「——ヴィルヘルム」
「はい」
「マルガレーテには言わないで。薬草図鑑を5時間読んだこと」
「……申し訳ございません、お嬢様。マルガレーテには既に申し上げてしまいました。『お嬢様は昨晩、薬草図鑑を5時間読んでおられました』と」
「なんでそれを報告するの!?」
「お嬢様の健康管理は使用人全員の関心事ですので」
ヴィルヘルムが穏やかに微笑んでいる。この老執事は天然なのか確信犯なのか、一緒にいてもわからない。
帰宅すると、書斎でマルガレーテが待っていた。腕を組んで、真顔で。
「5時間」
「……はい」
「薬草図鑑を、5時間」
「予習は大事よ」
「テスト勉強でもそこまでしませんでした」
「推しの健康は期末試験より重要よ」
マルガレーテが大きく息を吐いた。
「……推し活ノートに書くんでしょう。早く書いてお休みください。昨晩5時間しか寝ていないはずです」
「3時間」
「もっと少ないんですか」
「薬草図鑑の後に調合の練習を2時間したから」
マルガレーテが扉を閉める音が、いつもより少し強かった。
推し活ノート。今日の記録。
『推し、体調不良。薬草茶を調合して差し入れ。「うまい」「ありがとう」の2語を獲得。推しの寝起き顔を目撃。これは門外不出の極秘情報として脳内に厳重保管する。
反省点:推しの部屋で冷静さを失いかけた。推しが近いと判断力が落ちる。次回に備えて耐性訓練が必要。
薬草図鑑の予習は正解だった。推しの健康に関しては、いくら準備しても足りない。明日は回復食のレシピを調べる。おかゆ。推しの世界におかゆがあるかは不明。あったら作る』
ペンを置いて、窓の外の月を見た。
推しが早く元気になりますように。
それだけを願って、ようやく眠りについた。
次話:「ヒロインがフラグを折ってくる」




