†38話†:卯月暦 ― 幸福の天井 ― ①
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観測記録:第六圏域/聖女
対象:結城結衣
状況:願望維持処理のデッドロック(主観的幸福の更新停止)
原因:『昨日よりも幸せに』という願いに対し、不老不死による「状態固定」が完了。
初日の多幸感が最大値となり、以降の日常が「劣化コピー」と化して更新不能。
裁定:救出委員会への委託
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「……なるほどな。最高にいいシーンで一時停止して、そのまま画面を焼き付かせたか。……そりゃあ、新しい光が入る隙間なんてねーわな」
サダオミは空中に浮かぶログを指先で払い、目の前の「幸せすぎる地獄」を眺めた。
テラスの椅子に腰掛け、ティーカップを手にしたまま虚空を見つめている聖女・結城結衣。
その表情は穏やかで、美しい。
だが、その瞳には「飽和」という名の絶望がべったりと張り付いていた。
「あ! 本物だ! お姉ちゃんが毎日『私のすべてを救ってくださった、至高にして唯一の御方』って言ってた、サダオミさんだよね!」
背後から、弾んだ声が飛んでくる。
振り返れば、そこには萬ゾラに詰まされた哀れな下級天使、卯月とうかと瓜二つの顔をした少女――卯月暦が、崇拝と好奇心の入り混じった純粋な瞳でサダオミを凝視していた。
「……至高、て。……あいつ、俺を何だと思ってんだ」
「えー、だってお姉ちゃん、サダオミさんの話をする時、聖画でも拝むみたいにうっとりしてるんだもん! 『あの御方は、泥沼にいた私を光で焼き切ってくださった』って!」
「……褒め方が重いんだよ、あいつは」
サダオミは溜息をつき、視線を聖女に戻した。
結衣は、サダオミの存在に気づいている。けれど、動かない。
動いても、「あの日の最高」を超えられないことを、彼女の魂が理解してしまっているからだ。
「……サダオミ、さん。……私は、幸せなんです。不老不死を得たあの日、私は世界で一番、満たされていた」
結衣が、掠れた声で呟く。
「でも……次の日も、その次の日も。あの瞬間の輝きに、届かない。心も体も固定されているのに、感じ方だけが『慣れ』という毒に侵されていく。……昨日より幸せに。その一歩が、どうしても踏み出せないんです」
サダオミは、背中の刀|の柄を軽く叩いた。
「当たり前だろ。画面が焼き付いてるなら、一度電源を落としてブチ壊すしかねーだろ。……おい、聖女。お前のその『最高』、俺が今から床に叩きつけて割ってやるよ」
サダオミは一歩、結衣のパーソナルスペースへと踏み込む。
「……更地になれば、泥水一杯でも『昨日より幸せ』に決まってるからな」
抜刀する。
誰もがそう思った瞬間、サダオミは刀の柄から手を離し、呆れたように鼻を鳴らした。
「――なんてな。そんな面倒なことしねーよ」
拍子抜けしたような沈黙が、テラスに流れる。
「……サダオミ、さん?」
「あのな、聖女様。不老不死だか状態固定だか知らねーけどさ。……何も変えなきゃ、何も変わらないのは当たり前だろ」
サダオミは、結衣が手にしていた冷め切ったティーカップを指差した。
「幸せなんてのはさ、システムが用意してくれるもんじゃねーんだよ。自分で探さないと、見つかるわけねーだろ。……昨日と同じ景色の中でも、昨日とは違う花の咲き方をしてるとか、紅茶の淹れ方がちょっと失敗したとか。そういう『差分』を面白がれねーから、焼き付くんだよ、お前の頭は」
あまりにも、あまりにも当たり前の指摘。
だが、複雑な定義の迷宮に自ら入り込んでいた結衣にとって、それは迷宮の壁を物理的に蹴破るような、単純で強烈な光だった。
「……自分で、探す……?」
結衣の瞳に、初めて「生きた色」が戻る。
それを見ていた暦が、パッと顔を輝かせて結衣の肩を抱いた。
「あ、そっか!幸せは『ある』もんじゃなくて『見つける』ものなんだよ! 結衣ちゃん! 一緒に探してみようよ、今日の変なところ!」
「……暦、ちゃん。……ふふ、そうですね。今日の紅茶、少しだけ苦い気がします」
結衣が、小さく笑った。
定義上の「最高」ではない。けれど、昨日とは違う、確かな「今日」の味。
その瞬間、部屋を縛り付けていた停滞した空気が、窓から吹き込んだ風に溶けて消えていく。
「……ったく。卯月、あとはお前がなんとかしとけよ。……あ、お前の姉貴には『普通に仕事した』って言っとけ。至高とか聖人とか、禁止な」
サダオミは照れ隠しに手を振り、次元の裂け目へと飛び込む。
背後に残されたのは、今日という日の「苦い紅茶」を楽しみ始めた聖女と、それをニコニコ眺めるやらかし天使。
◇
【第一圏域:ひなの自室】
「あ、オミっちおかえりー! 早かったねー!」
部屋に戻るなり、画面の前でポテチを頬張るひなの能天気な声が響く。
画面の中では、ひなのキャラクターが「毒の沼地」で座り込んでいた。
「……ひな吉くん。そこは……」
「ここ、綺麗だよねー、沼の泡が綺麗だったから、一緒にブクブクしようと思ってー」
「死ぬぞ。……っていうか、もう半分溶けてるぞ」
「えー、なんで死ぬのー?」
サダオミは深く、今日一番の長い溜息をつき、ソファに体を預けた。
聖女の難解な定義を解くよりも、目の前の「学習しない平和」を維持する方が、よほど難易度が高い。
「……うん、死んだね」
「えー! なんでー!」
聖女の部屋で飲んだ「苦い紅茶」を思い出し、サダオミは小さく笑った。
昨日と同じ部屋。昨日と同じやり取り。
けれど、ひなの手元にあるポテチが「期間限定のコンソメ味」に変わっている。
そんな、どうでもいい「差分」だけで、今日は昨日よりほんの少しだけマシな気がした。




