†36話†:未登録の解答
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教室は、いつも通りの喧騒に包まれていた。
次の階層戦の話題で、あちこちから軽口が飛び交っている。
「また階層戦成立か」
「第二圏域の席替えは忙しないな」
「どうせ、サダオミの瞬殺だろ?」
笑い混じりの空気。どこにでもある、戦い前の軽い雑談。
その弛緩した空気の中で――
「……あー、これまずいな」
中村一式が、ぽつりと呟いた。唐突だった。
「何が?」
「いきなり弱気かよ」
周囲が茶化す。だが一式は冗談を返すでもなく、少しだけ眉をひそめた。その視線は、自分の手元すら見ていない。
「……これ、消すやつだ」
「は?」
教室の空気が、ほんの一瞬だけ、凍りついたように止まった。
「誰が?」
「いや……」
一式は頭を掻いた。自分でも何を言ったのか分からない、という顔だった。
「お前なぁ、縁起でもねぇこと言うなよ」
誰かが笑って流す。つられたように笑い声が戻り、空気はすぐに元に戻った。
―――いつも通りに。
その時。
るるかが、一式を見た。
ほんの一瞬。睫毛の震えほどの僅かな時間、何かを測るように。
だが、一式が視線に気づくより早く、るるかは視線を外した。何も言わず、何もなかったかのように。
「また、ひなのことおぶってるよ」
「いつも通りだろ」
「もう指定席だよなー」
話題は自然と流れていく。誰も気にしていない。
―――はずだった。
「……」
サダオミは一瞬だけ、一式を見た。
違和感。言葉にできない、肌を粟立たせる何か。だが――
「……まあいいか」
すぐに流した。深く考えるほどのことじゃない。そう判断し、意識の底へ沈める。
「サダオミはどうすんの?」
「どうもこうも、いつも通りだよ」
「ひな背負って突っ込むだけか」
「雑すぎるだろ」
「だいたい合ってる」
軽口、笑い。空気は完全に元通り。
―――その時だった。
教室の扉が、音もなく開いた。
立て付けの悪い木製の扉が滑る音も、風の音もしない。誰も気づかない。
だが、
「……来てる」
一式が、小さく呟いた。
「え?」
「今、なんか言った?」
「いや……」
一式は、首を振る。その視線の先。
いつの間にか、一人の少女が立っていた。
年齢不詳。表情はガラス細工のように薄く、感情の起伏が一切読み取れない。その瞳は――サダオミを見ているようで、その実、どこも見つめていなかった。
教室のざわめきが、急速に引いていく。
「……あなたが、サダオミ?」
少女が、口を開いた。
静かな声だった。囁くようなのに、教室の隅々にまで、染み渡るように届く。
「……そうだけど」
少女の焦点の合わない瞳が、サダオミを捉える。
「……確認」
一拍。
「……結果、一致」
「え?」
サダオミが眉をひそめる。
「何の話?」
少女は答えない。ただ、静かに宣告した。
「……次」
「あなたが、対象」
教室が静まり返る。論理の飛んだ言葉。だが、誰もそれを否定できない、絶対的な「確定の重み」がそこにはあった。
「……あー」
サダオミは、軽く息を吐く。
「つまり、次の相手ってことか」
理解は雑だった。だが、それで十分だった。
「まあいいや。どうせやることは一緒だしな」
肩を回す。いつも通りの準備。
その様子を、少女は見ている。いや、見ているのかすら分からない。
「……」
一式が、無言でその光景を見ていた。胸の奥に、棘のように引っかかる感覚。だが、それが何なのか、どうしても分からない。
「……なんでだろうな」
小さく呟く。誰にも聞こえない声で。
教室は、再び日常のざわめきを取り戻していく。何も変わらない。いつも通りの光景。
―――の、はずだった。
◇
武闘場へと続く回廊。
石畳を踏む足音が、規則的に響く。サダオミは、背中のひなを軽く揺らしながら歩いていた。
「なぁ、ひな」
「なにー?」
「他の圏域の生徒ってさ、所属してなくてもこっち来れたりするのか?」
軽い疑問。だが、どこかが妙に引っかかっている。
「んー……基本は無理だよー」
「だよな」
「でもねー」
ひなが、少しだけ首を傾げる。
「たまーに、変なの来る」
「変なのってなんだよ」
「うーん……」
言葉を探すように、間。
「来てるっていうかー……」
「?」
「最初から、ここにいる感じ?」
「……は?」
サダオミは足を止めかけて、やめた。意味が分からない。
「いや、それ来てるだろ」
「うん、来てるんだけどー……」
ひなは困ったように笑う。
「なんか、違うの」
「……まあいいか」
サダオミは、それ以上考えるのをやめた。どうせ、戦えば分かる。それでいい。
「今回の相手、強そう?」
「うん、強いよー」
即答だった。
「へぇ」
「でもねー」
ひなが、楽しそうに笑う。
「もう終わってる感じもする!」
「……どっちだよ」
「どっちもー!」
軽い会話。いつも通りの空気。だが、歯車の一枚だけが、どうしても噛み合っていない。
視界の先、武闘場の重厚な扉が見えてくる。サダオミは軽く肩を回した。
「ま、いいや。いつも通りでいくか」
「うん!」
ひなが元気よく答える。その声は、いつもと同じ。
何も――変わっていないはずなのに。
◇
武闘場。
石造りの広間は、いつもと同じ広さのはずなのに――妙に、静かだった。
観客席に人影はある。だが、ざわめきが薄い。期待とも熱気とも違う、どこか張り付いたような沈黙。
「……あれ?」
サダオミは、首を傾げた。いつもなら、ここで――
「よーし、派手にいくか――」
言いかけて、止まる。続かない。何かが、足りない。
「……まあいいか」
小さく息を吐く。考えても仕方がない。
背中のひなが、軽く身じろぎした。
「なんか、静かだねー」
「だな」
「でも、もう終わってる感じもする!」
「だからどっちだよ」
軽口は、軽口のまま流れた。
その時。
対面の空間に、陽炎のような揺らぎが生まれる。最初から、そこに立っていたかのように。
少女が、立っていた。
年齢不詳。無表情。焦点の合わない瞳。
「……確認」
一拍。
「……対象、一致」
サダオミは刀の柄に手をかける。
「どうも。さっきの教室の子、だよな」
少女は答えない。ただ、同じ方向を見ている。サダオミの身体ではなく、その背後か、あるいはもっと奥の空間を。
「……開始」
宣言だった。
同時に、空気が切り替わる。
―――来る。
そう身構えた時には、すでに遅い。
少女は、動いていない。
それなのに。
サダオミの身体は、半歩だけ横にズレていた。
風が、頬を掠める。
「……?」
遅れて、轟音と衝撃。
遥か後方の石壁に、一直線の深い亀裂が走った。
何も見えなかった。何も来ていないはずなのに。
「え、今の見てたの?」
ひなが首を傾げる。
「……いや?」
本心だった。見ていない。判断していない。なのに。
「……避けてた?」
「……っぽいな」
自分で言って、自分で違和感を覚える。
少女は、微動だにしない。それでも、無機質な言葉が落ちる。
「……回避完了」
「次、左」
サダオミは、反射的に足を動かしていた。左へ。
その瞬間。さっきまで立っていた位置を、不可視の何かが通過した。空気が裂ける。音は、ない。
「……おいおい」
サダオミは苦笑する。
「今の、俺が避けたのか?」
「うん、避けてたー」
「そうかよ……」
納得できない。だが、事実として成立している。
少女は、ただ言葉だけをシステムのように落とし続ける。
「……参照」
一拍。
「……正常」
サダオミが、一歩踏み込む。
踏み込む“前”に。少女の声が、重なった。
「……無効」
刹那。サダオミの軌道が、ズレる。
「―――は?」
自分の動きが、自分の意志と乖離する。踏み込んだはずの足が、わずかに外側へ着地する。
結果。間合いが、届かない。
「……回避」
少女の声。事後報告のように、淡々と。
「……なんだそれ」
サダオミは、息を吐く。笑うしかなかった。
「未来予知か?」
問いに、返答はない。ただ。
「……確定参照」
それだけが返る。
「……あー、なるほどな」
サダオミは、軽く肩を回す。
「要するに、“全部分かってる”ってやつか」
理解は雑だ。だが、それでいい。
「じゃあ――」
もう一歩。踏み込む。
「分かってても、どうにもならないとこ、いくね?」
言いながら、自分でも分かっている。何をどうするか、まだ、決めていない。
それでも。身体は、動く。
少女が、初めて僅かに動いた。
「……?」
ほんの僅かな遅延。瞳が、わずかに揺れる。
「……参照不能」
その言葉と同時に。サダオミの刀が、伸びていた。
理由はない。根拠もない。ただ。
「―――ここ」
その一撃だけが、確定していた。
サダオミの刀が、少女の目前で止まる。当たっていない。だが――空間が、軋んだ。
「……参照不能」
少女の声が、初めて震える。
ほんの、わずか。それだけで十分だった。
サダオミは、踏み込む。今度は迷わない。身体が、勝手に“そうする”。
少女が、言葉を落とす。
「……再参照」
一拍。
「……分岐増加」
瞳が、初めてサダオミを“捉えようとする”。焦点が、合わない。
「……収束しない」
サダオミの刀が、翻る。少女は避ける。避けるはずだった。
「……回避――」
言葉が、途切れる。軌道が、ズレる。
わずかに。それだけで、十分だった。
刀が、少女の肩を掠める。初めての接触。
少女の身体が、数歩分だけ後方に滑る。音は、ない。ただ、結果だけがそこにある。
「……」
沈黙。少女は、何も言えない。処理が、追いつかない。
「……おいおい」
サダオミは、軽く息を吐く。
「さっきまで余裕だったじゃねぇか」
軽口。だが、その目はわずかに細い。違和感を、強烈に感じている。だが、掘らない。
「……再構築」
少女の声が戻る。しかし。
「……参照不能」
「……参照不能」
「……参照不能」
壊れた機械のように、同じ言葉を繰り返す。結果が出ない。
サダオミは、距離を詰める。自然に。迷いなく。
少女の視界に、サダオミが“入る”。はずなのに。
「……未登録」
「……定義外」
その言葉が、落ちた。静かに。確定事項として。
「……なんだそれ」
サダオミは、苦笑する。意味は分からないが、やることは変わらない。
「……初めて、だ」
少女が、ぽつりと呟く。感情はない。だが、その言葉だけが空間に浮いている。
「……未来が、視えない」
サダオミは、止まらない。止まる理由がない。ただ、一歩。踏み込む。
その瞬間。少女の瞳が、初めてサダオミと“合った”。
「……違う」
「……未確定ではない」
一拍。
「……未登録」
理解が更新される。だが、遅い。
サダオミの手が、伸びる。狙いはない。だが。
「―――ここ」
その一点だけが、確定している。
触れる。
音は、ない。衝撃も、ない。ただ。
結果だけが、そこにある。
少女の身体が、崩れた。ゆっくりと。抵抗もなく。
床に触れる前に、淡い光の粒子となって止まる。
「……判定」
少女の声が、最後に響く。
「……敗北」
そのまま。存在が、霧散する。最初から、いなかったかのように。
静寂。武闘場は、音を失っていた。
「……終わり?」
サダオミが、首を傾げる。
「終わったー」
ひなが、軽く答える。
「だよな」
納得は、していない。だが、事実として成立している。
「……なんだったんだ、あいつ」
「んー……」
ひなが、少しだけ考える。
「変なの!」
「雑だな」
サダオミは苦笑する。それでいい。それ以上は、考えない。
観客席から、遅れてざわめきが戻る。何が起きたのか、理解していない音。だが、結果だけは誰の目にも明らかだった。
勝敗は、決している。最初から。
「……戻るか」
サダオミは、肩を回す。いつも通りの動作。いつも通りの勝利。
―――の、はずだった。
足を踏み出す。その一歩が。ほんのわずかに、“遅れて決まった”気がした。
「……?」
違和感。だが、
「……気のせいか」
すぐに流す。サダオミは、そのまま歩き出した。何も変わらない。本当に、何も。
―――はずなのに。
◇
武闘場を後にして、帰路。
勝利の余韻は、薄い。いつも通り。なのに、どこかだけが引っかかる。
「いやー、今回も一瞬だったな」
「いつも通りすぎて感想がないわ」
「ほんとそれー」
周囲は、軽い調子で笑っている。何も変わらない。何も。
―――変わっていないはずだ。
「……」
中村一式は、黙っていた。視線は前を向いている。だが、焦点が合っていない。
「おい、一式」
誰かが肩を叩く。
「さっきの、お前のあれ何だったんだよ」
「……あれ?」
「ほら、“消すやつだ”ってやつ」
「あー、それそれ」
軽いノリで問いかけられる。一式は、数秒だけ黙った。
「……なんでだろうな」
頭を掻く。困ったように。
「……俺、そんなこと言ったっけ」
「は?」
「言ってただろ」
「マジで?」
自分の言葉に、実感がない。記憶が、曖昧だ。
「……まあいいや」
一式は、軽く笑って流した。
「当たってなかったしな」
冗談めかして。それで終わりにする。深く考えるほどのことじゃない。
―――はずだった。
その時。
るるかが、一式を見た。
ほんの一瞬だけ。何かを確認するように。
次の瞬間には、いつもの笑顔に戻っている。
「お疲れさまでした」
何もなかったかのように、自然に会話に混ざる。
「今回も、問題ありませんでしたね」
「だね」
サダオミが、軽く頷く。
「まあ、いつも通りでした」
「はい、いつも通りです」
るるかは、穏やかに頷く。その声に、揺らぎはない。完全に、いつも通り。
「……」
一式は、その様子を見ていた。何かが引っかかる。だが、形にならない。
「……まあ、いいか」
小さく呟く。誰にも聞こえない声で。
違和感は、そこで止まる。それ以上、進まない。進めない。
誰も気づかない。誰も触れない。
何も変わらない。本当に、何も。変わっていない。
―――はずなのに。
誰も、それを異常とは認識しなかった。




