†13話†:第一圏域 ― 階層戦―
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第一圏域の空が、静かに開く。
自由落下に近い速度で地上へ叩き落とされた時と同じように、帰還もまた、乱暴な重力の反転と共にやってきた。
「……おわっ、と」
サダオミは委員棟の冷たい床に、猫のような身軽さで着地した。
白のブレザーの裾を払い、大きなリボンを整える。
地上で一樹と買い込んだコンビニのレシートが、任務の残滓のようにポッケから覗いていた。
部屋の中央には、あの日と同じように透哩が立っていた。
無数の任務水晶を星屑のように浮かせ、淡々と「帰還処理」を行う無機質な背中。
「……帰ったぞ。一樹の任務は『保留』だ。俺が勝手に継続にしてきた」
透哩は振り返らない。
指先が水晶の一つに触れ、遠くの空で光が一つ、無音で消える。
「……コンビニの新作菓子、か」
感情の起伏が全くない、低い声。
筒抜けだった。
任務ログを見れば、サダオミが何をやっていたかなんて、直轄である彼女にはすべてお見通しなのだ。
「あぁ。地獄の住人が一番弱いのは、天界の救済じゃなくて隣のコンビニの期間限定新作だ。あの子の中に『来週』というバグを埋め込んできた。……文句あるか?」
透哩はようやく、その淡い色彩の瞳をサダオミに向けた。
ひらりと揺れる白のブレザーと、大きなリボン。
その可憐な「備品」としての外装を一瞥し、彼女はわずかに目を細めた。
「効率が悪いな。願いが『確定』しているのなら、その構造を書き換えるなり、因果を断ち切るなりすれば済む話。……こうやる」
「いや、だからできないってばそれ!」
サダオミがつっこむと、透哩は「なるほど」とあの日と同じように短く応えた。
「……まぁいい。対象世界のログが、実現経路消失から『保留』に書き換わったのは事実。時間はかかり過ぎてはいるが救出委員としての役割は果たした」
透哩は残った一つの水晶をサダオミの目の前に差し出した。
「で、サダオミ。お前が地上で遊んでいる間に、第一圏域に席が増えた」
「あ、席って入替以外にも増えたりするんだ?」
「たまに、な……席数が一枠増加したことにより、楢葉宗太郎の第一圏域昇格。これに伴い、現・第一圏域最下位のサダオミに対し、第二圏域一席による『階層戦』が成立」
透哩は、撫でるような動作でサダオミの横を通り抜ける。
「私の所有物が何度も勝ちを譲られるな。……私に恥をかかせるな、備品ちゃん」
「あ、最下位のままなんだ?とか、やっぱり所有物なのね。とか、お前まで備品ちゃんかよ!とか、言う前に颯爽と去っていくのやめてね?」
◇
サロンを出ると、静止していたはずの弾幕が、堰を切ったようにサダオミの視界に溢れ出した。
『備品ちゃんおかえり!!』
『あ、ドナドナから生還した』
『ようこそ!第二圏域へ!!』
『いやいや!負ける前提かよ!w』
『でも相手、二圏の一席だぞ?』
『いいじゃん、負けても俺たちが可愛がってあげるし』
『二圏のアイドル就任式会場はここですかー?』
サダオミは鬱陶しそうに、大きなリボンの端を指先で弾いた。
周囲の熱狂は、もはや「応援」ですらない。
自分たちのテリトリーに可愛いマスコットが降りてくるのを、今か今かと待ち構えている、甘ったるくて粘着質な期待だ。
階層戦の会場、第一武闘場。
中央に立つのは、重厚な大剣を肩に担いだ第二圏域一席の男。
彼はサダオミの姿を認めると、慈しむような、吐き気のする笑みを浮かべた。
「安心しろ、サダオミちゃん。君みたいな『華』をボロボロにするのは忍びない。一瞬で終わらせて、僕の腕の中で泣かせてあげるよ」
視界の弾幕が、最高潮に加速する。
『泣いちゃうよー!』
『優しくしてやれよ一席!』
『頑張れ備品ちゃん(意味深)』
「……あー、うるさい。どいつもこいつも」
サダオミは白ブレザーの袖を少しだけ捲り、抜刀すらしない構えでふらりと前に出た。
地上で、ひよりとスイーツを評していた時の方が、よっぽど高尚な時間に思える。
「おい、一席様。……『瞬き』の準備はいいか?」
審判の合図が響く。
「――開始!」
審判の声が響いた。
同時に、第二圏域一席の男が、その巨躯に見合わぬ速度で踏み込む。肩に担いだ大剣が、空気を切り裂く轟音と共に振り下ろされた。
「……悪いね、備品ちゃ――」
男の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
男の視界。
踏み込み、振り下ろす。
その完璧な一連の動作の途中で、唐突に「世界がスキップした」。
目の前にいたはずの白ブレザーの備品が、霧のように消えた。
いや、そもそも最初からそこに居なかったかのような錯覚。
次の瞬間、男の脳が認識したのは「自分の首に触れられた感覚」ではない。
――視界が、真っ白に弾けた。
何をされたのかという「結果」だけが、後から押し付けられる。
呼吸が止まった理由も、平衡感覚が消えた理由もわからない。
ただ、天界の天井が猛烈な速度で迫り、直後に後頭部へ強烈な衝撃が走った。
ドサリ、という重苦しい音が武闘場に響く。
抜刀の音すらなかった。
『飛鳥』はまだ、サダオミの背中で眠っている。
ただ、サダオミの右手が、ほんのわずかに動いた。それだけだ。
第二圏域一席。
それが白目を剥いて床に沈んでいた。
……静寂。
数千人の観客が詰めかけた武闘場が、まるで真空に包まれたかのような無音に支配された。
サダオミは白ブレザーの袖を整え、何事もなかったかのように立ち上がる。
視界の端で、先程まで狂ったように流れていた桃色の弾幕が、凍りついたように止まっていた。
『…………え?』
『今、何が起きた?』
『何秒……?』
『…………え???』
一拍遅れて、真っ白な文字がポツリ、ポツリと、恐る恐る流れる。
先程までの「愛でる会」の余裕は微塵もない。
そこにあるのは、理解不能な事象に対する、根源的な「困惑」と、じわじわと滲み出す「畏怖」だった。
可愛らしい備品は、そこにいなかった。
そこにあるのが牙なのか、刃なのかさえ、誰にも観測できなかったのだ。
サダオミは観客席のどこかにいるはずの透哩へ向けて、面倒くさそうにリボンを弾いた。
「おい、審判。……これ、俺の勝ちでいいんだよな?」
静まり返った武闘場に、サダオミの温度のない声だけが響き渡った。




