†11話†:小早川一樹 ― 実現経路消失 ― ④
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駅前の廃ビル。
かつては華やかだったであろう屋上階のラウンジは、今は割れたガラスと埃が支配する、ただの巨大なゴミ捨て場だった。
その中央。
月明かりだけが差し込む窓際に、彼女はいた。
佐伯ひより。
まだあどけなさの残る顔立ちは、しかし、生気というものを一切失っている。
何度も「リセット」を繰り返したせいか、その肌は透き通るように白いが、瞳の奥に溜まった淀みは、どんな奇跡でも拭えないほどに深かった。
……あぁ。またこれか
サダオミは、背中の飛鳥を揺らしながら内省する。
世界が変わっても、時代が変わっても。
絶望の色は、いつも同じだ。
見飽きるほど、濁っている。
「ひより……」
一樹が、一歩前に出た。
その美貌は、今は悲痛なほどに歪んでいる。
一樹は震える手で、大切に抱えていたコンビニの袋を差し出した。
「これ……買ってきたんだ。よかったら、食べてみてくれないか」
一樹の声は優しく、そして、あまりにも「重かった」。
「……いやいやいやいや!」
耐えかねたサダオミが、横から割って入る。
「一樹、暗いから! 葬式かよ! せっかくのスイーツが死後の供え物に見えるだろ!」
「サ、サダオミ……っ。だって、ひよりはこんなに苦しんでるんだぞ!?」
「苦しんでようがなんだろうが、腹は減るんだよ」
サダオミはひよりの前にどかっと胡坐をかいた。
ひよりは、瞬きすら面倒そうな目でサダオミを見る。
それから掠れた声で呟く。
「……だれ、この人」
「サダオミだ。こっちのサンダル美女の知り合い。救出委員ってやつなんだけど、今はただのスイーツ同好会員だ」
「……帰って。何しに来たか知らないけど、無駄だよ。私は、死にたいだけ」
「あぁ、知ってる。でも今それどころじゃないんだ。一樹、さっさと開けろ」
サダオミはひよりの言葉を完璧に無視して、一樹の手から袋をひったくった。
そして、ひよりの目の前で『禁断の背徳・キャラメルバター・タルト』のパッケージをバリバリと豪快に破る。
「……っ! サダオミ、お前ひよりに差し出す前に自分で食うのかよ!?」
「腹減ってんだよ、捕まってたからな! ほら一樹も食え、うまいぞこれ!」
サダオミはタルトを大きく一口頬張った。
濃厚なバターとキャラメルの香りが、埃っぽい廃ビルに場違いなほど立ち込める。
「……ぇ、あぁ。それじゃあ……」
一樹も毒気を抜かれたように、隣でタルトを口に運んだ。
「……っ!? うまっ! なにこれ、今のコンビニってこんなレベル高いの!?」
「だろ!? うわー、このキャラメルのネチャつき加減、マジで背徳だわー! ちらっ」
「本当だ、バターが脳にくる! これ一個で寿命縮まりそう……って俺たち天使だった! ちらっ」
二人の天使が、ひよりを挟んで「うまっ!」「最高!」と交互に叫びながら、ちらちらと彼女の様子を伺う。
ひよりは呆然としていた。
さっきまでの、この世の終わりみたいな空気が、美女二人のしょうもない掛け合いに塗り潰されていく。
「……ふふっ」
ひよりの口から、小さな、本当に小さな笑い声が漏れた。
本人が一番驚いたような顔をした、その瞬間。
――ギュルルルルル。
静かな廃ビルに、あまりにも正直な、ひよりの腹の虫が鳴り響いた。
「あっ」
ひよりが顔を真っ赤にする。
サダオミはそれを見逃さず、わざとらしくカゴの中を覗き込んだ。
「あーあ、一樹。次が最後の一個だぞ。これは譲れないな……ジャンケンだ!」
「はぁ!? お前さっき二個食っただろ! 俺が買うんだよ!」
「勝負だ! 最初はグー、ジャンケン……ホイ!」
「ああっ!」
サダオミの勝利。
「っしゃああああ! 勝利の女神は俺に微笑んだ! 背徳タルト、いただきまーす!」
サダオミが最後のパッケージに手をかけ、封を切ろうとした瞬間。
「……あ」
ひよりが、思わずといった風に、消え入りそうな声を出した。
「よし、食え! とりあえず食え! 話はそれからだ!」
サダオミは、開封しかけたタルトをひよりの鼻先に突き出した。
ひよりは困惑しながら、差し出されたタルトを見つめている。
「……でも、私……」
「いいか、ひより。よく聞け。なんと今なら……」
サダオミは勿体ぶって、スタジャンのポッケをごそごそと探った。
「スプーンもあります!」
サダオミがプラスチックのスプーンをシャキーンと手渡すと、ひよりはついに耐えきれず、「あははっ!」と声を上げて吹き出した。
「……っ、ひどい。準備良すぎ……っ」
笑いながら、ひよりの目から一粒の涙がこぼれた。
◇
サクサク、と廃ビルに場違いな咀嚼音が響く。
ひよりは、まるで壊れ物を扱うような手つきでタルトを口に運んでいた。
「な、なぁ、ひより! どうだ? このキャラメルの暴力的な甘さ! 喉にカッとくるだろ? これこそが現代社会のストレスを糖分で殴り殺すっていう開発者の執念なんだよ。これ作ったやつ絶対性格悪いよな?」
「……う、うん」
ひよりはタルトを咀嚼しながら、困ったように頷く。
「だろ!? しかもこのタルト生地、あえて湿気る寸前みたいな絶妙な重さにしてあんだよ。これがコーヒーの苦味と合わさると、もう脳が『あ、これ死ぬやつだ』ってバグるわけ。あ、一樹、コーヒー冷めてねぇか? 早く飲めよ、これ冷めたらただの泥水だぞ」
「……サダオミ、お前。少しは黙って食べさせてあげろよ。集中できないだろ」
一樹がたまらず横から口を挟んだ。
一樹は一樹で、ひよりが「味を感じているか」を心配しすぎて、自分は一口も進んでいない。
「はぁ? 食事はコミュニケーションだぞ。一樹、お前のその『気遣ってます』みたいな顔が一番のノイズなんだよ。ほら食え、顎動かせ」
「あぐっ……。お前なぁ……っ」
無理やりコーヒーを押し付けられる一樹。
サダオミはそんな親友を無視して、またひよりに顔を近づける。
「で、どうよ。このバター感、ちょっとクドすぎると思わないか? 俺はもうちょい塩気があってもいいと思うんだよなー。なぁ、ひより的にはどうなんだ、これ」
「……」
ひよりは、タルトの最後の一片を飲み込み、ゆっくりと口を開いた。
「……サダオミさんは、そう感じたかもしれないけど」
その声には、さっきまでの死にたがりの「無」ではなく、明確な『個』の意志が混じっていた。
「私は……この甘さが、ちょうどいいと思う。……だって、これくらい強くないと、自分が何食べてるか、分からなくなっちゃうから」
ひよりは、空になったパッケージを見つめて、少しだけ寂しそうに、でも確かに自分の感想を口にした。
「……へぇ。方向性の違いだねっ!」
サダオミは、待ってましたとばかりにニヤリと笑い、膝を叩いた。
「解釈が合わないなら勝負するしかないな。……一樹! コンビニの新作、次はいつだっけ?」
「え、あ、あぁ。来週の火曜日から、次は抹茶系のやつに切り替わるって店長が言ってたけど……」
「よし、決まりだ! 抹茶なら俺の土俵だ。次こそは白黒つけてやるからな」
サダオミは立ち上がり、ひよりの目の前で指を突き出した。
「いいか、ひより。来週の火曜、またここに来る。その時までに抹茶に対する自分なりの解答を用意しておけ。……あ、一樹。抹茶は二個だぞ。三個だと俺が勝ちすぎるからな」
「……はぁ? なんで俺がまた奢る前提なんだよ」
ひよりは、呆然と二人を見上げていた。
来週。
さっきまで「五分後」に死ぬことしか考えていなかった少女の目の前に、いきなり「七日後」という巨大な未来が放り込まれたのだ。
七日は、長すぎるはずだった。
「……来週、も。来るの?」
「当たり前だろ。俺の味覚が否定されたままじゃ、天界に帰れねぇんだよ」
サダオミは嘘八百を並べ立て、背中の『飛鳥』をガチャリと鳴らした。
「……わかった。じゃあ、待ってる。……抹茶、嫌いじゃないし」
ひよりの小さな返答。
その瞬間、サダオミの視界の端で、エラーを出し続けていた「願い:死にたい」のログが、一瞬だけノイズのように揺れた。
◇
廃ビルを後にした二人の影が、薄明るくなり始めたアスファルトに長く伸びている。
深夜の冷気を含んだ風が、サダオミの着ている白のブレザーを揺らした。
胸元の大きなリボンが、朝の光に照らされて場違いなほど可愛らしく主張している。
隣を歩く一樹は、しばらくの間ずっと黙り込んでいたが、やがて絞り出すように口を開いた。
「……なぁ、サダオミ」
「なんだよ。新作の抹茶、自腹切るのがそんなに嫌か?」
「違うよ。……お前、あの子のあんな顔、どうやって引き出したんだ? 俺、あの子に笑いかける余裕なんて一度も与えられなかった」
一樹は、自分の綺麗な手を見つめる。その手は、ひよりを救おうと必死に差し伸べられ、けれど空を切ってきた手だ。
「……天界の学園ってのは、そんなにすごいのか? さっきのやり取り、もしかして最先端のメンタルケア・マニュアルにでも載ってるのかよ」
「はぁ? マニュアル?」
サダオミは歩きながら、信じられないものを見る目で一樹を振り返った。
「なんだよそれ。『自殺したがってる女子高生がいたら、とりあえずコンビニスイーツ食べさせて喧嘩を売れ』とか? ……さすがにそんなマニュアル、あっても破り捨てられてるだろ」
「……だよな。でも、お前は最初から答えを知ってたみたいに……」
「答えなんて知るかよ」
サダオミは、白ブレザーのポッケに手を突っ込み、欠伸を一つした。
「ただ、あいつらが望んでるのは『完璧な奇跡』じゃない。……もっと、こう、逃げ道なんだよ。天界の正義なんて、潔癖すぎて息が詰まるだろ。一樹、お前、あの子を『助けなきゃいけない悲劇のヒロイン』として扱いすぎたんだよ」
一樹が、ハッとしたように目を見開く。
「あの子が欲しかったのは、救いじゃなくて、単なる『次の火曜日』だった。それだけだ」
サダオミは鼻歌まじりに、道端の小石を蹴飛ばした。
大きなリボンが、その動きに合わせてひらりと跳ねる。一樹はしばらく立ち止まり、朝焼けに染まり始めた空を見上げた。
「……完敗だ。入学レースも、天使としての腕も」
「勝負になってねぇって言っただろ。……ほら、さっさと歩け。一樹、お前もうすぐバイトの時間だろ?」
「あ、やべっ! シフト交代、五時半だった!」
さっきまでの感傷的な空気はどこへやら、絶世の美女二人は朝日を浴びながら全力で走り出した。
一人は白のブレザーとリボンを翻し、一人はサンダルを脱げそうにしながら。
「なぁ一樹」
「ん?」
「これで新作がまずかったら許さないからな?」
「コンビニの新作をなめるなよ?」




