第五十三話:一指の鳴動
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「鈴、ちょっと待っててね」
俺は隣に立つ鈴の頭を軽く撫でてから、視線を足元の城壁へと落とした。
約束を果たしに来た、その第一声を発しようとした矢先だった。
今の俺の瞳には、世界の「理」が、構造の歪みとしてあまりに鮮明に映り込んでしまう。
巨大な城壁を支える石組みの、致命的な重心のズレ。
深層部で悲鳴を上げている微細な亀裂。
それらが無視できない不協和音のように意識を逆撫でして、どうにも話に集中できない。
「……ねえ、羅刹。積もる話もあるんだけどさ」
俺は苦笑交じりに、目の前で呆然としている羅刹に声をかけた。
「その前に、この城壁、一度組み直さない?このままだと、一年も保たずに北側の土台から崩れるよ」
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羅刹は、耳に届いた言葉の意味が即座には理解できなかった。
虚空を割って現れた全能者が、真っ先に口にしたのが「構造的欠陥」の指摘だったからだ。
「……何を、言っている。貴様」
ようやく絞り出した羅刹の声は、情けないほどに困惑していた。
だが、目の前の異物は、羅刹の戸惑いなど気にする様子もない。
「いや、だって危ないし。鈴も歩く場所だから、ちゃんとしておきたいんだよね」
そう言って、相手は事も無げに袖を捲り上げた。
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俺は城壁の表面を見つめ、意識を集中させる。
世界そのものを形作る「概念」に触れる感覚は、もう掴んでいる。
あとは、この歪んだ構造をあるべき形へと書き換える「音」を鳴らすだけだ。
俺は右手の指を組み、一気に力を込めて弾いた。
スカッ。
乾いた風の音だけが空しく響く。
昔からこれだけは苦手だ。
俺は少し決まり悪そうに眉を寄せ、もう一度、今度はより慎重に指先を揃え直した。
「……んっ、ちょっと待ってね」
三度目。
パチン、とようやく望んだ音が響いた。
音が空気に溶けた瞬間、概念が形を伴って動き出す。
大地から地鳴りのような重低音が響き、城壁を構成する数万個の巨石が、まるで命を得たかのように一斉に鳴動し始めた。
◇
羅刹は足元の激しい振動に、思わず剣の柄を掴んだ。
だが、それは崩壊の震動ではなかった。
巨大な石の塊たちが、まるで見えない指先に導かれるかのように滑らかに動き、隙間なく噛み合っていく。
石と石が擦れ合う轟音の中、中央に立つ姿は、ただ静かにそれを見守っていた。
数分と経たぬうちに、鳴動は収まった。
現れたのは、以前と同じ姿でありながら、以前とは決定的に違う「永遠」を予感させる完璧な城壁だった。
「……っ、ふぅ。よし、これで安心だ」
袖を戻し、満足げに微笑む姿を見て、羅刹は自分の喉がカラカラに乾いていることに気づいた。
指先一つで、世界を、理を、意のままに書き換える。
そのあまりに強大で、底の知れない全能性を前に、羅刹は言葉を失うしかなかった。




