第四十八話:報告の重み
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王は、窓の外を眺めたまま動かなかった。
背後で膝をつく弟、一世の気配だけが、冷えた部屋の中に漂っている。
旅の汚れも落とさず、一世は戻るなりこの部屋へ直行してきた。
そのことが、報告の内容の異常さを物語っていた。
「……それで。あの女は何をしていた」
王が振り返らずに問う。
あの女。
王自身が鞘に納めたまま放り出した、緒方刀座のことだ。
「炊事場で、灰を掻き出しておりました」
一世の声には、一切の迷いがなかった。
王は、ゆっくりと弟の方へ顔を向けた。
実の弟だ。
その目が嘘をついているか、あるいは動揺しているかなど、見ればすぐに分かる。
だが、一世の目は凪いでいた。
納得のいかない現実を、そのまま受け入れた男の目だ。
「灰だと? あの美貌を泥に汚して、下女の真似事か。相変わらず、底の割れぬ不気味な奴だ」
「嫌味には見えませんでした。兄上。……あれは、祈りに近いものです」
一世が「兄上」と呼んだことで、部屋の空気がわずかに柔らかく、同時に重くなった。
一世は、兄の視線を正面から受け止めて言った。
「城の構造、民の統制、そして淀みのない生活。どれをとっても、準備期間も人手も足りないはずのものです。……あれは、奇跡としか表現のしようがありません」
王の眉が動く。
一世は、感情で物を言う武人ではない。
その弟が、兄である自分に対して「奇跡」という言葉を使った。
「お前がそう言うなら、そうなのだろうな」
王は短く息を吐き、机の上の地図に視線を落とした。
一世の報告は、王が描いていた「刀座が野垂れ死ぬ」というシナリオを根底から覆した。
だが、同時に新しい道も示している。
「兄上。あの場所なら、……鈴を、護りきれるかと存じます。あの女ならば、あるいは」
一世の言葉に、王は沈黙で応えた。
捨てたはずの剣が、自分の想定を超えた「絶対的な避難所」を作り上げている。
それは王にとって、計算違いという名の屈辱であり、同時に、最愛の娘を護るための唯一の「解答」でもあった。
「……そうか。お前がそこまで言うなら、よほどなのだろう」
王は椅子に深く腰掛け、目を閉じた。
一世という、最も信頼できる「自分の目」が持ってきた、想定外の毒。
それをどう飲み干すか、王の頭の中で新しい算盤が弾かれ始めていた。
◇
王は椅子に深く腰掛け、目を閉じた。
かつて、緒方刀座を漢遼迩へ送った時、王は彼女を「研ぐ必要のない、なまくら」だと思っていた。
賊から鈴を護った際も、彼女は一度も刀を抜かなかった。
その底知れなさを不気味と断じて、鞘に納めたまま遠ざけたのは王自身だ。
だが、一世が持ってきた報告は、その「なまくら」が自分たちの預かり知らぬ場所で、とてつもない土壌を築いているというものだった。
王の思考を遮るように、廊下を走る無遠慮な足音が静寂を切り裂いた。
一世が即座に立ち上がり、腰の刀に手をかける。
その淀みのない動作は、彼が今もなお「戦場」の只中にいることを示していた。
扉が開き、転がり込むように入ってきたのは、顔面を蒼白にした伝令兵だった。
「……報告! 西の黎王府が、尊迩栄への侵攻に失敗! 逆撃を受け、王都は一夜にして陥落したとのこと!」
一世の頬が、わずかに引きつった。
黎王府。
あの強国が、手を出した瞬間に飲み込まれた。
尊迩栄は自ら動かぬ。
だが、一度その逆鱗に触れれば、あとに残るのは灰燼のみだ。
「……早すぎる。あの黎が、一太刀も報いられぬとは」
王が呟いた。
大陸の均衡が崩れ、弾き出された敗残の民や戦火の余波が、いずれはこの国にも流れ込む。
理屈も交渉も通じぬ「不干渉の怪物」が隣で目を覚ました。
その牙が、いつ、どのような拍子で自分たちの喉元を裂くか分からぬ恐怖。
王は机の上の地図を凝視した。
黎が落ちた今、この国に突き立てられる「余波」を逸らす術はない。
「兄上」
一世の声が、重く響いた。
一度も抜かぬまま捨てたあの「刀」を、今、この絶望の中で引き抜くしかない。
王は地図の端にある、かつて自分が「捨てた場所」を指先でなぞった。
「……一世。鈴を呼べ」
絞り出すような、けれど明確な命令だった。
王は顔を上げ、弟を見据えた。
「今すぐだ。あの女の元へ、鈴を送り届ける準備をさせろ」
王の瞳には、かつての自分の眼力を呪うような屈辱と、娘を護るための冷徹な決意が混ざっていた。
鞘のまま捨てた刀を、最も過酷な戦場、あるいは最も安全な鞘として使い直す。
それが、鈴を生き永らえさせるための、唯一残された道だった。
「承知いたしました」
一世が深く頭を下げ、部屋を後にする。
残された王は、ただ一人、窓の外の暗い空を見つめていた。




