第四十話:一拍の猶予
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朝の火は、夜の火より静かだ。
音を立てない。
主張もしない。
それでも、確かに腹を刺激する匂いだけは、嘘をつかない。
城の内側で、鍋が増えていた。
一つ、また一つ。
昨日までは粥だけだった。
水を多めにして、数を誤魔化すやり方。
今日は違う。
土の匂いを残した根菜が入る。
琥珀色の脂を湛えた乾肉が落ちる。
熱い湯気の中で、脂が弾ける小さな音がした。
それだけで、空気の密度が一段、重くなる。
俺は火床の前で、指先をわずかに動かしていた。
魔法でも、奇跡でもない。
鍋の配置。
火力の揺らぎ。
人の動線。
見えない歯車が噛み合うように、場が整っていく。
誰が先に並び、誰が震える子どもを抱えているか。
それだけを、泥のついた指先で掬い取るように見ている。
声はかけない。
指示もしない。
必要な場所に、必要な熱が流れるように。
ただ、生活の骨組みを置く。
それで十分だった。
◇
最初に気づいたのは、子どもだ。
器を受け取ったあと、すぐには立ち去らない。
もう一度、鍋から立ち上る濃い湯気を見上げる。
母親が、慌てて細い肩を引く。
「……今日は、いい匂いだね」
小さな声だった。
誰に言ったわけでもない。
だが、その一言が波紋のように広がった。
周囲の視線が、一斉に動く。
匂いを見る。
昨日とは違う、濁りのない白煙を見る。
器の底に沈む、確かな質量の塊を見る。
豪華ではない。
祝いでもない。
ただ、今日一日を立っていられる予感がする食事だった。
誰かが、ぽつりと呟く。
「……姫様が来るって、聞いた」
その言葉に、城の空気が一瞬だけ強張る。
俺は手を止めなかった。
止めたら、その隙間に不信が入り込む。
国が来る。
また、奪われる。
そんな方向に思考が転ぶ前に、肉の焼ける匂いをもう一段、強くした。
◇
食事が配られる。
昨日より、並ぶ列が静かに整っている。
押し合いはない。
苛立ちも、罵声も、胃の腑が温まる予感に押し流されていく。
怒りは、腹が減っている時に、一番鋭く尖る。
俺は、城壁の影に深く下がった。
前に出る必要はない。
顔を見せる必要もない。
列の中に、王の名を口にする者はいない。
感謝も、忠誠も、そこにはまだない。
ただ、湯気を見つめる目から、刺すような険しさが一拍分だけ、遅れて消える。
それでいい。
今は、その「遅れ」だけでいい。
空腹のまま、誰かを憎むために力を使い果たさせる必要はない。
護る、という言葉が、また頭をよぎる。
斬らない。
叩かない。
ただ、届くべき安らぎを、憎悪よりも先に届ける。
その方が、今の俺らしい。
◇
鍋の向こうで、誰かが笑った。
小さく。
短く。
それでも、確かに、この城で初めて聞く笑いだった。
俺は深く、息を吸って、吐いた。
強張っていた肩の重みが、ほんの少しだけ地面に逃げた気がした。
今日は、これでいい。
姫が来るのは、もう少し先だ。
その時までに、この場所が。
怒りをぶつける戦場じゃなく。
腹を満たしたあとに、明日を考える場所になっていれば。
俺は火を見る。
鍋を見る。
そして、次に置くべき生活の欠片を、考え始めた。




