21.本心と建前の狭間
じっとりとした気分で迎えた翌朝、アストリッドは焼き立てのパンにマーマレードを塗りたくりながら前日を思い返していた。
気持ちの整理に役立つ何かはないかと昨夜はだらだらと裏日記を読み返してはみたが、しっくりとくる何かは特になく追加で何かを思い出すこともない。
自分が悲しいのか、悔しいのか、苛立っているのか、それともまったく違う感情なのか。負の感情が渦巻いていることだけは理解しているが、それ以上がよくわからない。
それでも睡眠を一晩とれば、頭のほうは多少晴れてくる。
いまのアストリッドが気になっている部分は何か。まずはそこを確定させるべく、考えをまとめていくことが問題の解決に必要なことだろう。
解決しなければならないこと、解決しなくてもいいこと。問題の切り分けを心がける。
ひとつ、ロディオンがクイドゥ夫人の元へワインとカードの件を対処に行った際、買収されていた給仕とどんなやりとりがあったのか。
失神した夫人を休憩室に運ばせる時に、部屋の指定があったのかなかったのか。
これは部屋の指定をしていた場合、どんな目的だったのかが疑問なだけだ。
ひとつ、囮だったと話して貰えなかったこと。
これは囮にされていたということ自体が、現段階ではそもそも妄想でしかない。
けれど本当に囮だった場合は信用されていなかったことが悔しいが、ごまかさずに話してもらえるとは思えない。
結局のところは、それらを含めてロディオンのいままでの行動に嘘やごまかしがどれ程含まれているのかがわからないことが怖いのだ。いま己を苛んでいるものは不安だと、アストリッドはようやく理解する。
触れてくる手、抱きしめる腕、落とされる柔らかな唇、ふにゃりと気を抜いた表情。
今まで感じていた彼の熱は、向けられていたなんらかの好意的な情は、どこまでが本当なのだろうか。
ロディオンは仕事として、何人もの女性と表面的な恋人関係を作り上げていた。そのためにはわかりやすい行動を人前ですることもあっただろう。
それらの相手といまのアストリッドにどんな違いがあるのだろうか。もしかしたら違いなどないのかもしれない。
――だとしたら、まんまと恋心を抱いてしまった自分があまりにも惨めではないか。
過去の恋人たち――ロディオンの仕事相手はおそらく諜報員やその協力者なのだと思う。国内外の隠された情報を探り、それを国や王家のために活用するための。
買収された給仕への対応が随分と手慣れていたのもあり、情報の集め方も使い方もよく知っているのだろう。
アストリッドとは踏んだ場数が違いすぎる。そうして容易く転がされてしまった……のかもしれない。
この懸念は使命である「真実の愛」のためには解決しなければならない事項なはずだが、アストリッドは自分がこの問題を解決できるとは思えない。ロディオンはどう考えているのだろうか。
瞼がじわりと熱を持つ感覚を、ミルクと砂糖たっぷりのカフェオレで流し込む。
まだ疲れているからと私室でとる朝食は、いつも通り美味しいはずなのにあまり食べられなかった。
朝食の後も何をする気にもなれないアストリッドは私室でぼんやりと小説を眺める。流行りの恋愛小説は読み終えたら妹に渡すためさっさと読み進めたいところだが、視線は同じ箇所をいったりきたりするだけでまったく頭にはいらない。
この体たらくでは妹に先に読んでもらったほうがいいかもしれないと思ったあたりで、アストリッド宛に二通の手紙が届いた。
一通は友人から。
昨夜の歌劇場に居たらしく、ロディオンがアストリッドに口づけていたことや背後から抱きしめていたことなどの様子が話題になっていることを教えてくれた。
ついでに詳しく教えろとのことで、本題はこちらだろうと苦笑が漏れる。
もう一通はロディオンから。
彼はアストリッドを送った後にまた戻り、事件の対応をしていたのでそれについての話がしたいらしい。都合が良ければ午後に来訪したいそうだ。アストリッドが昨夜落ち込んでいたことも気にしているようで、いたわりの言葉が綴られている。
これは本心なのか、建前なのか。ついそんなことを考えてしまう。
――けれど不安だということは、まだ信じたいと思っているということだ。
盲信は思考停止だが、すべてを嘘だと断じるのも思考停止だ。
そもそもロディオンが何かしらの嘘をつかなければならない立場にいることは知っていたではないか。
アストリッドがいまするべきなのは見極めること。
嘘を暴くことは目的にならず、必要なのはその先。
これはきっと、アストリッドに必要なことだ。
大切なのは、どう動くかである。
そのために必要な情報が足りないと思うのなら、探ればいいだけだ。
けれど何でもかんでも聞いてしまうのは判断を惑わすノイズが増えるだけ。いま自分に必要な情報は何かと考えながら、アストリッドはベルを鳴らして来客を迎えるための準備の指示を出した。
◇
「――今回のクイドゥ夫人の件なのですけれど、わたしって囮だったのですか?」
「えっ、おとり? なんで?」
ロディオン来訪の本題もそこそこに進んだところで、アストリッドはこれと決めた疑問を投げつけていた。
まさに寝耳に水とばかりに目を丸くしたロディオンは、あどけなく瞬いたのちにアストリッドの言葉を待つ。
来訪したロディオンが手土産として持ってきたのはまだ温かいチェリーパイ。
アーメット邸のチェリーパイは、いまやアストリッドのお気に入りとなっていることをどうも見抜かれている。
ロディオンには深煎りのコーヒー、アストリッドにはコクのある紅茶――前世でいうアッサムに近いもの――が用意され、チェリーパイとジャムサンドクッキーがテーブルに載るシンプルなティータイムのさなかであった。
「もともとクイドゥ夫人のことは危険視されていましたので、あちらが仕掛けてきたら排除のきっかけになるでしょう? だから、その可能性もあると……」
「いやいや、そんな危険なことはさせないよ。まぁ……万が一もうどうしようもなくてそれが必要になったときはちゃんとお願いする。もしかして、昨夜元気がなかったのってそのせい?」
「そう、ですね……実は考え込んでました」
額に手を当てて項垂れるロディオンにアストリッドは少しだけ申し訳なくなる。
しかしこれを確認しておかなければ、今後にどんな影響が出るかわからない。
「あの、妙な疑いをかけてしまい……失礼しました……」
「いいや、僕が不甲斐ないだけだから……」
お互いに気まずくなったところで、昨夜のロディオンによるアストリッドに対する振る舞いが話題になっていることについての文句をねじ込んだ。
アストリッドの文句を柔らかく目を細めて受け止めるロディオンに、思わず毒気を抜かれてしまう。この瞳はずるい。彼を疑う気持ちがすぐに霧散してしまう。
だから抱擁や落とされる口づけにどんな意味があるかなんてこと、ロディオンがアストリッドのことをどう思っているかなんてことを、確認する勇気は出てこなかった。
◇
ロディオンが帰ったあと、本題として説明された昨夜の顛末を思い返す。
クイドゥ夫人はしばらく黙秘を貫いていたが、連絡がついた彼女の夫と対面した途端に錯乱したらしい。そんな騒ぎもあり今朝時点でも証言は得られていないが、証拠は既に揃っているため何らかの処分は下されるだろう。
手慣れた手口と買収されていた複数の従業員の証言で、クイドゥ夫人には余罪があると疑われている。そちらの調査も同時に進められていくそうだ。
夫であるクイドゥ子爵は錯乱した妻を眺めたあとは、それらの状況の確認だけを済ませて去っていったという。噂などで聞いていた以上に夫婦仲が破綻していた。
アストリッドは流石に哀れみを覚えたがどうしようもない。
しかし政略結婚の夫婦仲がどうというのは、もはや他人事と思えなくなっている。
そうやって気分を沈ませてしまったアストリッドの元に、一通の招待状が届く。
それはパトヴェレ侯爵家が主催するガーデンパーティーの知らせであった。




