20.見えない嘘の向こう側
――――――近い。
近いどころか、あまりにも密着しすぎている。
アストリッドの視線は舞台に向かったまま。けれど背後から長い腕でアストリッドを抱きこみ首筋に顔を埋めて深呼吸をするロディオンのことで、頭の中はいっぱいだった。
「……うん、落ち着く………………」
「なっ……んで……!?」
ロディオンによる予想外の発言に時も場所も忘れて大声をあげかけたが、染み付いた淑女の心得がアストリッドの声を抑える。
こんなところで声を張り上げてたまるかと、アストリッドも深呼吸をして自分を落ち着かせることにした。
(いままで知らなかっただけで、もしかしてこの人は変態だったの!?)
深呼吸をしたところで混乱した頭が碌に回るはずもなく、アストリッドはロディオンの趣味趣向についてしばらく考え込む羽目になった。
いきなりキスしたり、匂いを吸ったり。彼はいったいアストリッドに何を求めているのだろうか。
◇
そうこうしているうちに、慌てた様子の支配人がアストリッドたちのボックスを訪う。
ロディオンがいつの間にか呼び出しの手配をしていたらしいが、この場でする話ではないということで支配人室まで足を運ぶことになってしまった。
(……結局、初めの方しかちゃんと観られていないなぁ)
支配人室の応接スペースでアストリッドは上質な紅茶の香りを堪能しながら、ロディオンの落ち着いた声を彼の横で聞く。
給仕が買収されてアストリッドに供されたワインに薬が仕込まれたことからはじまり、犯人にカードやワインの薬についてロディオンが確認にいったところまではアストリッドも知っている。
それから企みを看破された犯人――クイドゥ夫人がロディオンに詰問されたショックで失神してしまったということは、ここで初めて聞いた。
「企みについて少し確認したら倒れてしまってね、そちらの従業員に休憩室へ運ばせたからあとは頼んだよ。逃げられたらちょっと面倒だし」
「興奮で失神するご婦人は少なくありませんので、おまかせください。それで、その、買収されたという従業員は……?」
アストリッドもすこし気になっていたことを支配人が確認する。てっきり連れて戻ってくると思っていたのだ。
ロディオンは席に戻るなりアストリッドを吸いはじめてそれどころではなくなったため、今の今まで忘れていたのだが。
「彼なら逃げてもいいことないよと諭しておいたんで、大人しく待機所にいるはずだけど」
「あの、何故野放しに……」
「あのね、こちらはプライベートだから人手が足りないんだ。私も帯剣してないから護衛を離すわけにもいかないし、傍に置いて監視するにも目が足りない上に無駄に目立つ。自衛で手一杯」
いまはアストリッドという足手まといもいるし、犯人側からなんらかの追撃が無いとも限らない。拘束用の縄なども手持ちが無く、買収された給仕が妙なことをしないかの監視をするのにも目が足りない。
あからさまに怯えた給仕がボックス席にいれば目立ってしまい、それで変な噂を立てられたらたまったものではない。アストリッドとロディオンはただでさえ目立つ組み合わせなのだ。
アストリッドが最後に見た姿ですら青ざめて震えていたので、追加で脅したのなら逃げたり反抗する気力などもう無いと判断したのも理解ができる。
休憩室と従業員の待機所に人を回してもらい、あとは支配人に任せてもう帰ろうかとなった頃にばたばたと報告が入ってきた。劇場内で何か事件があったようだ。
漏れ聞こえてくる話から察するに、なんと客ではなさそうな風貌の侵入者が暴行事件をおこして逃走。ちょうど地区の警備隊が到着したので、人員を割いて捜索中ということらしい。
「アーメット卿……少しよろしいでしょうか」
「何だ?」
「その……先程の事件の被害者なんですが……どうやらかのご夫人でして……」
ぼそぼそと支配人と話をしていた警備隊の責任者――階級章を見る限り隊長格と思われる――が言いにくそうに説明をはじめたが、ちらりと横目でアストリッドを見たロディオンが待ったをかけた。
「……その話はここでしなければならないことか?」
「も、申し訳ございません。場所を変え――」
「いいえ、続けてください。……どうやらわたしも関係者のようですから」
ロディオンに指摘された警備隊長は場所を改めようとしたが、アストリッドはそれを止めた。
この状況でクイドゥ夫人が関係しているのなら、アストリッドも無関係ではなさそうである。気持ちのいい話ではないと思うが、こればかりは仕方がない。
表情は硬いものの落ちついた様子のアストリッドを見て、ロディオンは複雑そうな表情を見せたがなんとか飲み込んで警備隊長に先を促した。
警備隊長の話によれば、支配人に指示をされた従業員が休憩室に向かおうとしたところ女性が喚く声が聞こえたという。
休憩室周辺に劇場警備や他の従業員の姿は何故か見えず、慌てて声の主を探せば不審な男たちが逃げるところを目撃。騒ぎを聞いてすぐに駆けつけてきた地区警備隊に不審者の情報を託した。
被害女性とは興奮で話ができないため、とりあえず別室で保護。
そして支配人に指示を仰ぎに来た段階が現在、ということだ。
「状況から察するに……誘い出すはずだった個室に偶然寝かされ、自分で仕掛けた罠にかかったということか?」
「それは現段階ではなんとも……」
「確かに。まずは逃げた不審者を捕まえてもらわないと」
聞いた話をまとめるロディオンの薄い微笑みと仕草からは、何の感情も読み取れない。
薬とカードの件の対処をして戻ってきた時の妙な様子から考えるに、いま聞いた以上の何かがあったように思えるが何もわからない。
ロディオンはどこかで嘘を吐いているのではないだろうか。いや、嘘は吐いていないのかもしれない。本当のことも言っていないだけで。
あのエヴェリーナを騙ったカードは「待っているからいらっしゃい」という内容と、流麗だがまったく似ていない署名だけが書かれたものだった。
あの給仕が話していなければ、今もロディオンは夫人が指定していた休憩室を知らないはず。ロディオンは買収されていた給仕にわざとそこに運ばせたのか、脅され気が動転していた給仕がうっかり運んだのか。はたまた他の従業員が何も知らずにそこに運んだのか。
――それとも、いま聞いた以上の何かをしていたのか。
ロディオンはもともとクイドゥ夫人を危険視していた。
あちらの計画に乗じて夫人を排除するべく動いただけなのか。
もともとアストリッドが囮にされていた可能性もある。
どこまでが偶然で、どこまでが想定されていたことなのか。
ロディオンが何を考えているのかがわからない。
囮が必要なら、事前に話してくれる程度の信頼関係は築けていると思い上がっていた。
けれどアストリッドは何も聞いていない。いや、まだ囮だと決まったわけではないのだが。
いまのアストリッドには、クイドゥ夫人に対しての哀れみの気持ちなどは一切浮かんでいない。自分を害そうとした者をわざわざ気にかけてやれるような底抜けの善人などではないのだ。
もしロディオンが仕掛けていようがそうでなかろうが、そもそも彼女がアストリッドを陥れようとしなければ何も起こらなかったのは状況的に確かだろう。
だからこそ、アストリッドは自分のことばかりを考えてしまう。
ロディオンはあとで何らかの説明をしてくれるのだろうか、それとも知らないほうがいいと遠ざけられてしまうのか。
モヤモヤとした気持ちが、アストリッドの胸に溜まっていく。
ロディオンは嘘の吐き方をよく知っている人である。
彼が今までアストリッドに向けていた視線は、声は、仕草は、どこまでが彼の本当なのだろうか。何を信じていいのかがわからなくなってしまった。
キスをしてきたり抱きしめたり匂いを吸ってきたりという派手な行為は、何かしらの嘘を覆い隠すためのものだったのかもしれない。
アストリッドは、自分はロディオンを好きなのだと思っている。
けれどロディオンの「何」が好きなのだろう。アストリッドが好きなロディオンの「何」かは、信じていいものなのか。
もしアストリッドが好きなロディオンの「何」かが嘘だったのなら、ロディオンを好きだという自分の気持ちは信じられるものなのだろうか。
白ワインとカードは証拠品として渡した。クイドゥ夫人の席に置いてあった鞄からも、色々出てきたようである。
買収された給仕も無事に確保され、大人しく取り調べを受けているらしい。
調査はこれからだが、結果的に被害者になったとはいえクイドゥ夫人が無罪放免になることはないだろう。
じきに事情説明が落ち着き、アストリッドはどこかぼんやりとした気持ちのままロディオンに屋敷まで送られることになった。
けれど追加で何らかの説明をされることはなく、何かを尋ねる勇気もない。そもそも何を尋ねるべきかもわからない。
けれど、馬車の中でロディオンにずっと握られていた手は温かかった。
それでもアストリッドのモヤモヤとした気持ちが晴れることなく、その日は過ぎていった。




