春の奇跡
病棟の三階まで、二人はエレベーターを待たずに、一気に階段で駆けのぼった。
見慣れた病室を通りすぎ、最近移されたという大部屋の方へ一目散に向かう。
たどり着いた病室の中では、健太の担当医が興奮ぎみで、白川達を待っていた。
「白川さん!良かった、来ていただけて!
私はもう五年も健太君の主治医を務めさせて頂いてますが、こんな奇跡的な場面に出会えるとは思いませんでしたよ!
ツルンブル注射やアーバルノ療法や色々試しましたが、どれも効かなかった時は私も思い悩みました。
けれど……本当に、白川さんにあの書類へサインをして頂けてよかった!」
一気に捲し立てるように話す医者は、喜びを全身で表して、白川に抱きつこうとするぐらいの勢いだった。
普段はもっと冷静な先生だったはずなのに、と白川は苦笑いを浮かべる。
もう何回も見ていた医師の胸のネームプレートには、「佐原」と書いてあった。
「先生、そろそろ息子に会わせてもらっていいですか?」
「あ、ええ、そうですね」
医師は冷静さを取り戻し、一回だけ咳をした。
その横を通りすぎ、白川はベッドに近づく。
まだ物々しい機械に繋がれて、健太が横になっていた。
「シラカワなんだよね?」
「うん、そうだよ」
健太は長いこと眠っていたので、ゆっくりとあくびをして、白川を見つめた。
その顔はうっすらと笑みを浮かべていて、か細い声が白川へ届く。
「なんだ、シラカワって僕のお父さんそっくりだったんだ」
「じゃあ、お父さんもイケメンだったろ?」
「ううん、ただのおっさん」
健太はいたずらっぽく笑って、白川に手を伸ばした。
白川もその手を握り返して、優しく笑う。
「これからはな、もっと元気になったらポテチ食べ放題だぞ。
それに、飛行機にも乗せてやる。
すごいだろ、ちゃんと全部覚えてるんだ」
「うん、良かった。シラカワも覚えていてくれてて」
二人が囁くように話し合っていると、なにかのっそりした気配が白川の背後に立った。
驚いて振り返ると、足にギプスをはめた松葉杖のおばあさんが立っていた。
「アンタが健太の親かい。
全くろくに顔も出さないで、非常識な親だよ。
まぁ、息きらして駆けつけた点は評価するけどね」
「おばあちゃん、白川はやっと息子と話してるんだからさ」
設楽がやんわり老婆を止めたが、老婆はふんと鼻を鳴らした。
「私はずっとこの子を気にかけてきたんだよ。
あんたらはろくに面会にも来ないで、医者となにかを企んでたじゃないか。
助かるかどうか半々の駆けに出るなんて、医者もあんたも正気の沙汰じゃないよ」
「釣部さん。どうしてそのことを知ってるんですか?」
「私の地獄耳を侮ってもらっちゃ困るよ。
私はあんたらなんかより、ずっと耳がいいんだからね。
あんた、医者のくせに危ない書類にサインさせたんだろ?」
佐原先生は困った顔で、弁解するように白川へ笑った。
老婆はまだ喋るのをやめずに、健太の頭の上の方を指差した。
「そこにお守りがあるだろう。私が娘の婿に買わせてきたんだ。
健太を助けたのは、訳の分からない薬なんかじゃないからね。
私の思いが仏様に通じたんだろう。
健太をこの部屋に移すように言ったのだって、私なんだ。
あんな小部屋で、一人ぼっちでいるのはかわいそうだからねぇ。
まぁ、そういうことだから私に感謝するんだよ、健太」
老婆は入れ歯をカチカチ鳴らしながら、低い声で笑った。
そして勝手に喋って、勝手に自分のベッドに戻っていった。
その様子を見ていた健太はくすくす笑って、白川に耳打ちする。
「あのおばあさん、魔女みたいだね」
「ああ。あの意地悪ばあさんにそっくりだ」
すると、老婆のベッドから、「聞こえてるよ」と声が響いた。
二人は竦み上がって、驚いた分だけ一緒に笑った。
後ろでは設楽は感極まって泣いてるし、佐原先生もつられて泣いている。
白川の声も次第に泣き声に代わり、健太にすがり付いて子供のように泣いた。
その震える手を、健太はぎゅっと握り締める。
まるで、猫の尻尾を掴んでいるような、そんな安心感があった。
そして健太まで泣いて、また二人で笑った。
もう、白川も健太も暗闇で迷うことはない。
二人はずっと一緒に笑って、絶対にその手をお互いから離すことはなかった。
いつまで経っても、二人は仲良く幸せそうに笑っていた。




