桃の花
白川はまた夢を見ていた。
その夢は前とは違って、とても現実味があって、頬を撫でる風まで感じることが出来た。
真っ青な空に向かって柔らかい草が背を伸ばし、綺麗な花もあちこちに咲いている。
この夢の世界はどこを向いても色鮮やかで、温かい色使いで出来ていた。
その草原の中に、一人の女性が立っている。
その人は花柄のワンピースを身に付けて、こちらへ歩いてきた。
そのワンピースは自分が選んだものだと、白川にはすぐに分かった。
「麻実……」
白川はその女性に話しかける。
愛情に満ちた姿の女性は、懐かしさも相まって、白川の心に押し寄せた。
麻実は笑ったままこちらへ歩いてくる。
そして、白川の頬に生える猫のひげを引っ張った。
「なにするんだよ」
「だって、そんな格好してたら気になるじゃない」
「え?」
慌てて自分の姿を確認すると、白川はまだ猫の尻尾が生えていて、体も柔らかいオレンジ色の毛で覆われていた。
白川は情けなくなって、耳を器用にぱたんと閉じる。
「なんでこんな姿のままなのかな」
「それはアナタがそうなりたいって望んだからでしょ?」
「でも、こんな姿じゃ健太に会いに行けないよ」
「大丈夫よ。健太はあなたがどんな姿でも、受け入れてくれるから」
麻実は一度だけ白川のおでこにキスをして、白川の肩を叩いた。
「あなたは、あなたの世界へ戻って、健太のことを守ってあげてね。約束よ」
「え……それじゃあ、健太は」
「それは戻ってからのおたのしみ。そろそろ私も帰らないと」
「待ってくれ!君も俺と一緒に来てくれよ!
俺だけじゃ良い親になれる自信がないんだ!」
「そんなこと言ったって、私はもう……」
そのとき、困惑する彼女の頭上から、花びらが舞い始めた。
桃色の花びらがひらひらと舞い降りて、白川と麻実の間の空間を埋める。
風が吹くと一気に花びらが巻き上がって、桃色の花吹雪になった。
辺りはほのかな甘い香りに包まれる。
花びらと一緒に降ってきた一輪の桃の花を拾い上げて、麻実は笑った。
「私ね、これだけが心残りだったの」
「えっ?」
「アナタともう一度だけでいいから、桃の花が見たいって、ずっと願ってた。
でも、それも叶っちゃったな」
「やめてくれよ……。健太のことはどうするんだ?
健太のことだって、心残りだろう?」
「ううん。それも、アナタがいるから大丈夫よ」
麻実は笑顔を輝かせながら、白川へ手を振った。
「アナタなら大丈夫。健太のことをきっと守れるはずって、私は信じるから。
絶対大丈夫だから!」
「麻実!」
白川は叫びながら妻のもとへ走ったが、妻も妻のいる世界も、どんどん白川から離れていった。
そして、辺りが暗闇と静寂で一杯になったころ、白川は自宅の扉が叩かれる音を聞いた。
まだ寝ぼけている作家は、ゆっくりと現実の世界に戻り、顔にかかった布団をどける。
そして、ふらつく体をなんとか起こして、玄関へと向かった。
すると、鍵を開けるなり、設楽が中へ飛び込んできた。
「白川!健太君が!」
白川は、はっと目を開いて設楽と共に車に乗り込んだ。
運転席に設楽が乗り込み、丸みがある設楽の愛車は、猛スピードで病院へと走る。
車内の空気は張りつめて、二人は一言も交わさないまま病院へたどり着き、車の鍵も閉めずに健太の病室へと駆け出した。




