今日も目を覚まさない
まず、編集者や読者は白川に明るい話を望まなかった。
舞い込んでくる仕事も、いつもの通りに人の闇を描くようなものばかりで、なかなか発表する機会がない。
それになにより、白川自身の限界もあった。
どんなに明るく爽やかなお話を書こうとしても、どこか歪なものになり、話のお粗末さだけではなく、表現力まで落ちてしまうのだ。
白川は思い悩みながら、日々の少ない仕事をこなしていた。
そんな白川を支えたのは、なぜか親友の妹だった。
白川はその理由を尋ねたこともあったが、いつも肝心なところは、はぐらかされてしまう。
そうしている内に、二人はいつの間にか恋人になり、デートも重ね、親密な仲になった。
そんなある日のこと、白川は上等な上着を羽織って、小さな箱を内ポケットに隠し、お洒落なレストランへ親友の妹を誘った。
彼女はそれに答え、綺麗なドレスといつもより上品な化粧で身支度し、白川の運転で目的地に向かった。
緊張で固まる白川を見て、彼女はからかうように笑う。
だが、白川が小さな箱から指輪を取り出すと、彼女はもう笑わなかった。
瞳から涙を少しだけこぼし、指輪を受けとると、その薬指にはめた。
「麻実、俺と結婚してくれないか?」
麻実は口を小さな両手でおさえたまま、一度だけ頷いた。
彼女の薬指で輝く宝石よりも、彼女の瞳は輝いている。
白川にとって、なによりも一番素晴らしい日のことだった。
さらに時が過ぎ、白川はヤケクソになることもあった。
人と衝突して落ち込んで、塞ぎこむことも多々あった。
その全てを白川の妻は許して支え、それを白川の親友も許していた。
麻実は昔から兄が大好きで、いつも兄にくっついていたような気がする。
でも、その眼差しは今は白川に向けられて、白川を心から愛していた。
白川自身も、妻はなくてはらない人だったし、失うことなんて考えたこともなかった。
あの日、妻が事故に逢わなければきっと、白川は今ごろ家族三人で食卓を囲んでいた。
だが、事故は起きた。交通事故だった。
妊娠していた妻は最期まで息子のことを気にかけていた。
その息子が呼吸器に繋がれて、まだ泣き声をあげたことすらないと、伝えることがどうしても出来ない。
妻は息子を白川に託して、この世を去ってしまった。
白川は妻の思いを叶えるために、事故の慰謝料も全てあてて、健太に呼吸器を繋ぎ続けた。
息子の体は成長していくのに、目を開けることは一度もなく、声も聞くことは出来ず、低体温の息子から感じるのは電気毛布の温かみと単調な機械音だけ。
そんな様子を知って、段々と周囲の人びとは、白川と距離をおくようになっていった。
白川があまりにも鬼気迫る顔で、いつも金にとりつかれるようになったのも、その原因の一つだ。
寝たきりの息子にあらゆる薬を試し、治療法を試し、そのために白川は自分の書きたい小説を捨てた。
ゴーストライターもやったし、全然小説と関係ない仕事もやった。
それでも健太は目を覚まさず、三年の時が過ぎた。
そのとき、訪ねてきた設楽がふっと言ったのだ。
「お前は、健太を守りたいのか、精一杯やったと自分に言い訳したいのか、どっちなんだ」
なにを言われようと健太は生きている。
生きていてくれるだけで、支えになるときもある。
たまに健太が笑っているように見えるときすらある。
そんなことを彼に言って、怒鳴り散らして追い返したのを最後に、白川は設楽を避けるようになった。
設楽の言うことは、客観的な意見だ。
当事者の白川の心中など分かるわけもなく、世間の善良で無責任な市民たちと、なにも変わらない。
あいつらとなにも変わらないんだ、と思っていたのに、何度も自分に言い聞かせたのに、白川は健太に会いに行けなくなった。
設楽に言われなくても、白川は自分のことを責め続けていたのだ。
あの日自分が麻実を迎えにいけば、健太が未熟児で生まれることも、麻実が死ぬこともなかった。
なのに、健太を助けるために努力することを、怠けることが出来るだろうか。
健太は確実に生きているのだ。身長も同じ年の子と変わらない。
それどころか、ちょっと他の子より大きいことを知って……俺は……。
俺は、喜ばなかったのだ。
なぜ、健太は普通に話すことが出来ないのか、外を歩き回ったり、虫を追いかけたり、ご飯を食べたり、俺に笑いかけてくれることが出来ないのか。
こんなに大きく成長できるのに……なんて、そんなことだけを考えていた。
俺は健太に会う資格がない。
白川はそう思った。
徐々に白川の足は病室から遠ざかり、健太のことを考える時間も減っていった。
いっそ、麻実も健太のことも忘れてしまいたいと、そんなことさえ思った。
それでも、呼吸器を外すことだけは出来ない。
白川は孤独な時間に取り残され、そんなときに書いたものがあの絵本だった。
いつの日だったか、妻が絵本の作家になりたいと言っていた事があったのを、白川は思い出す。
白川はほとんど握ったこともない絵筆を手に取り、思い付くまま絵本を描いた。
この頃はまだ辛うじて、健太と話せる日が来ることに希望を失っていなかったから、健太に読ませたい話を書くことができた。
どんな汚い心にも囚われず、作家は絵筆を走らせる。
人は本当に辛いときに物語を作ると、その話は繊細で美しく、優しいものになるらしい。
そんな絵本は、作者の予想以上に人々に受け入れられた。
もしかしたら、根底を流れる健太への思いを、その作品から読み取ったからかもしれなかった。
しかし作者は、絵本が金になったとしか受け止めなかった。
その金も健太に当てられたが、健太は目を覚まさなかった。
次第に白川の心から健太は離れていき、健太は暗い闇の中に取り残された。




