天使の羽
「あの、もしかして白川さんじゃないですか?」
白川が小説を書いていた喫茶店で、隣からおしとやかな声が聞こえた。
自分の小説のファンが来たのかと、白川は原稿用紙から目を離し、声の方へ視線を傾ける。
すると、そこには設楽の妹が立っていた。
成長して二十代後半くらいになり、髪は長くゆとりを持ってふくらんで、少しだけ茶色に染められている。
大人びたシャツのえりをニットの下からのぞかせて、白いジーンズをはいていた。
表情もそれに合わせて落ち着きを滲ませ、ほのかに香水の香りが彼女を包み込んでいた。
白川は今でもその全てを思い出せるほど、彼女が美しく見えたのを覚えている。
設楽の妹は、白川を見てはにかんだ。
「やっぱり白川さんだ!
もしかして、作家さんになったんですか?」
「まぁ、そんなに稼いではいないけど、一応」
みとれそうになる気持ちを押さえつけ、白川は無愛想な声を出す。
しかし、親友の妹は笑顔をより輝かせた。
「すごいっ!やっぱり白川さんには才能があったんですね!
兄もずっと、白川さんのことを気にしてたんですよ。
あいつは元気にやってるのか、小説家になれたのかって。
ちゃんと野菜を食べてるのかなぁなんてつくづく言ってたこともあって、オカンか!って思うほどでしたよ」
「へぇ、あいつらしいな」
懐かしい親友の話題は胸に心地よく、白川は久々に笑った気がした。
そんな白川の向かいに彼女は腰かけて、白川の持つ原稿用紙に目を落とす。
「今はどんな小説を書いているんですか?」
「小説なんて大層なものじゃないよ。
思い付きで、犯罪とか国家転覆とか復讐とか、なんとなく書いてるだけ」
「冒険物語とかは書かないんですか?
兄が読んだことあるって言ってたんで、私も読みたいなって思ってたんですけど」
「そうだね。冒険物語はもう……」
白川は設楽に小説を見られたときのことを思い出し、そのあと二人で父親のところへ行ったことを思い出していた。
あのとき白川は密かに心に誓っていたのだ。
あいつにとってただのガキである俺の人生の重みや深さを、あいつに、白川省吾に見せつけてやると。
白川の母と白川自身も馬鹿にして蔑み、話も聞かずに追い返したことを後悔させてやろうと思っていた。
その復讐の手段に小説を選んだのは、父親の小説家としての権威だかなんだかを完璧に消し去るためだ。
あいつが小説家・白川省吾ではなく、作家白川彰の父親と呼ばれるようになれば、復讐は成功だった。
そんな思いを久しぶりに会った親友の妹にこぼし、ほそぼそと適当な小説を書いている様は、あまりにも滑稽だと白川は思い、卑屈に笑った。
親友の妹は真剣に白川の話を聞いていたが、一つ疑問があった。
「白川さんは、人が胸を痛めるような小説を書けるように、努力してるんですよね?」
「ああ。読んでいて辛い話は心に残るし、そういう話こそ名作だと思ってる。
テレビのドキュメンタリーだって、胸が締め付けられるような話ばかりじゃないか」
「確かにドキュメンタリーなんかはそうですね。
でも私は……それはちょっと違うと思うな」
親友の妹は、白川を傷つけないようにそっと言った。
「私は、冒険物語の方が読みたいって思いますよ。
兄が、あなたが書いた冒険物語の話を持ち出して、いつも私に言うんです。
『あんなに切なくて爽やかな小説はあいつにしか書けない』って、自分のことのように誇らしげに話すんですよ。
いつか読んでみたいって、私は本気で思ってたから……」
彼女の悲しげな顔のせいで、白川は初めて小説を書こうとしていた時のことを思い出してしまった。
登場人物が悩み苦しんでも、最後はみんなで笑えるようにしよう。
辛いことがあった人は、必ず笑う権利がある。
それが白川の信条だった。
白川の小説の中では、子供は自由に外で遊び回り、家には優しい両親がいて、青年や少女は恋をして、みんなが絶望を乗り越え日常を取り戻すはずだった。
なのに、いま白川が書いている話は、ミサイルが飛び交って世界が終末を迎える話だ。
救われる人は一人もなく、全てが闇の中へ消えていく。
その登場人物の心情ばかりを、とりつかれたように描写していた。
まるで、それがこの世の真実だと言わんばかりに。
「もう、俺にはこういう話しか書けないんだよ。俺にはもう……」
白川は細く溜め息をついて、この世の全ての不幸を背負っているような顔をした。
しかし、親友の妹は白川を見捨てなかった。
「私は白川さんなら、またワクワクするような話を書けると思うな。
私はそう信じるよ。だって私、どうしても読んでみたいから」
白川は目の前でほほえむ女性には、天使の羽でも生えているんじゃないかと疑った。
そんなバカなことを考えていないと、涙を押し込んでいられなかったからだ。
もう一度書いてみたい。そして、それを親友の妹に読んでほしい。
そんな衝動にかられたが、それは白川にとって苦難の道だった。




