第八話 九歳と呼ばれた幹部
石造りの天井。紫の光。
「……朝からやり直しかよ」
俺はベッドの上で顔を覆った。
死んだ場所は街の石畳。だが戻るのは、あくまでその日の朝だ。紅茶を淹れ直し、挨拶をやり直し、書類を机の左端に置き直すところから、もう一度。
二日目、二度目の朝が始まる。
「おはようございます、ユウマ様」
「おはよう。今日は出かけることになる」
「え? リーニャ様、そんなご予定ありましたっけ」
「午前十時十七分に言い出す」
「なんで分単位で知ってるんですか!?」
◇
二度目。
紅茶。七十一度。「……ふうん」。耳が赤い。よし。
十時十七分。「出かけるわよ」。よし。
黒いローブ。フード。「お忍びよ」。
(近所の子どもが親のコートを着ている)
(考えるな。顔に出るぞ。無だ。俺は無だ)
そして門を出て、俺は今度こそ完璧な航路を取った。
果物屋のおばさんがいる大通りを避け、東側の細い道へ。
「ユウマ。なんでこっちなの」
「近道でございます」
「……そう」
勝った。
そう思った矢先だった。
道端のパン屋から、白い髭のじいさんが顔を出した。
「おや、朝から偉いねぇ。お使いかい、お嬢ちゃん」
じいさんは、焼き立ての丸パンをひとつ、リーニャの手に握らせた。
「おまけだ。持っていきな」
黒いローブが、ぷるぷると震えはじめた。
「……ユウマ」
「はい」
「この街、なんなの」
「大変に人情深い街でございます」
「わたしを何歳だと思ってるのよ」
「じいさんは目が悪いのです。たぶん八十くらいで」
「あの人、たった今、遠くの荷車の値札を読み上げてたわよ」
「……」
くるり。
(避けたら別の善人が湧いてくるんだが!?)
――デス:9
◇
石造りの天井。紫の光。
「無理だろ!」
三度目。
俺は考え方を変えた。
避けられないなら、先手を打つ。
大通り。果物屋のおばさんが正面から歩いてくる。おばさんが口を開くより早く、俺は一歩前に出て、深々と頭を下げた。
「失礼。こちらにおわすお方は、我が主君であらせられる――」
そこまで言って、俺は自分の間違いに気づいた。
背後で、空気が凍りついていた。
「お忍びって言ったわよね」
「あ」
「わたし、たった今、お忍びって言ったわよね」
「言いました」
「じゃあ何? あんた、街のど真ん中で何を発表しようとしたの?」
「……段取りの不備でございます」
くるり。
――デス:10
◇
石造りの天井。紫の光。
俺は起き上がらなかった。
天井の染みを見つめたまま、じっと考えた。
十回。十回死んだ。
昨日は八回で答えが出た。今日はまだ出ない。
(……落ち着け)
(そもそも、俺は何を解こうとしてる?)
街の人間が彼女を子ども扱いする。それを止めようとして、避ければ別の善人が湧き、庇えば正体がバレる。
そりゃそうだ。問題は街じゃない。
街は正しい。フードを被った小柄な人影を見て、大人が親切にする。それだけの話だ。悪意はどこにもない。
問題は。
リーニャが、その親切を受け取る方法を知らないということだ。
「……三年か」
俺は天井に向かってつぶやいた。
十二で幹部の椅子に座って、三年。あいつが向けられてきた視線は二種類しかない。
恐怖か、侮りか。
そのどちらでもない目で見られたとき、あいつは反応できない。だから怒る。怒るしかない。
パンを渡されて、リンゴを渡されて、あいつはそれをどうしたらいいのか知らないんだ。
(じゃあ、俺がやることは)
(怒らせないことじゃない)
俺は起き上がった。
「ミルカ! 街の商業区の資料、全部出せ! 税の記録と、荷馬車の出入り台帳だ!」
「朝から!? まだ日も昇りきってませんよ!?」
「昇る前に終わらせる」
◇
四度目。
大通り。果物屋のおばさん。
「あら、いい兄妹ねぇ。妹さん、おいくつ?」
黒いローブが震えはじめる。
俺は今度、間に入らなかった。
代わりに、こう言った。
「――リーニャ様。三番通りの露店、税の申告額が半分です」
震えが、止まった。
「……え?」
「昨年の売上台帳と、今年の申告を照合いたしました。同じ規模で、同じ品目で、額だけが半分になっております。おそらく、帳簿が二重です」
フードの奥で、赤い瞳が、すっと細くなった。
さっきまでの子どもじみた癇癪の色が、一瞬で消えていた。
「……見せなさい」
「こちらに」
◇
三十分後。
三番通りの真ん中で、恰幅のいい商人が地面に額をこすりつけていた。
「も、申し訳ございません! 出来心で!」
「二年分。加算して納めなさい」
リーニャは、フードを取らないまま告げた。
小さな体だった。声も高かった。それでも、その場の誰も、彼女を子どもだとは思わなかった。
「今月中よ。遅れたら屋敷に来て説明して」
「はいっ!」
そして、周りに集まった露店の主人たちが、ざわめいた。
「あの子、すげえな」
「二重帳簿を目で見抜いたぞ」
「うちの台帳も見てもらったほうが……」
俺は少し離れた場所で、荷物を持ったまま突っ立っていた。
リーニャが振り返る。
「ユウマ」
「はい」
「……なんで、あんたが手を出さなかったの」
赤い瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
「昨日、あの男の時は、割って入ったのに」
(――覚えてるのか)
一日目の、あの執務室。俺が庇って、あいつが青ざめた、あの瞬間を。
俺は少し考えて、正直に答えた。
「私が出ると、リーニャ様の手柄が減ります」
「……」
「それに、私では帳簿を読めても、税は徴収できません。あれはリーニャ様のお仕事です」
長い沈黙があった。
やがてリーニャは、ふいと顔を背けた。
「……そう」
フードの奥から覗く耳が、また赤くなっていた。
◇
帰り道。
リーニャの手には、リンゴと丸パンが握られていた。
「……ねえ」
「はい」
「これ、どうすればいいの」
「食べるものかと」
「そうじゃなくて」
リーニャは足を止めた。
「もらったのよ、わたし。あの人たちに。何も渡してないのに」
夕暮れの紫が、石畳に長い影を落としていた。小さい影と、その隣の少し大きい影。
「……こういうの、初めてなの」
その声が、ひどく心細く聞こえて。
俺は、たぶん一生忘れないと思う。
「ではリーニャ様。その二つを、明日も食べに行きましょう」
「え?」
「今日いただいた分は、明日また、あの通りを歩いて返せばよろしいかと。何度でも」
リーニャは、ぽかんと俺を見上げた。
それから、リンゴを一口かじった。
「……甘い」
「はい」
「悪くない一日だったわ」
俺は深く頭を下げた。
十回死んだ甲斐があった、とは口が裂けても言えなかったが。
◇
その夜。
屋敷の門を閉めながら、俺はふと、通りの向こうを見た。
路地の暗がりに、人影が立っていた。
フードを被った、痩せた輪郭。こちらをじっと見ている。
「……どちら様で」
声をかけた瞬間、影は動かなかった。
代わりに、風に乗って、こう聞こえた気がした。
「――三十四人目」
俺は駆け出した。
路地に飛び込んだ時、そこには誰もいなかった。
石畳の上に、リンゴの芯がひとつ、転がっているだけだった。
(第九話につづく)




