第七話 攻略度、一パーセント
夢を見た。
真っ白な空間に、コツ、コツ、と足音が響く。
「お久しぶりです。三十四人目」
女神ルミナリアが、相変わらず腹の立つ美しさで微笑んでいた。
「あんたか」
「ずいぶんな口の利き方ですね」
「七回死んだ人間の権利だ」
「よく生き延びました。一日目を越えたのは、あなたが四人目です」
「……四人目」
三十三人のうち、二十九人は一日目で終わったということだ。
俺は中庭の墓標の並びを思い出して、少しだけ黙った。
「さて。ご報告です」
女神が指を鳴らした。
俺の目の前に、光の板が現れる。数字が書いてあった。
『攻略度:1%』
「……なんだこれ」
「あなたの任務の進捗です。リーニャ・ブラックマンがあなたに恋をすれば、100%」
「一パーセント」
「一パーセントです」
「七回死んで一パーセント!?」
「初日で1%は優秀ですよ。歴代最高記録です」
「歴代がひどすぎるだろ!」
女神は光の板を消した。
「それから、ルールの確認を。あなたの加護は『死んだ日の朝』に戻します。日を跨いだ失敗は、もう取り返せません」
背筋が、すっと冷えた。
「……つまり、昨日のことは」
「確定しました。永久に」
「ガイゼルの件も」
「ええ。あなたは昨日、うまくやりましたね」
女神は、なぜか少しだけ嬉しそうだった。
「もうひとつ。期限があります」
「期限?」
「三か月後、魔王軍は人間国への総攻撃を開始します。その先鋒が、第三幹部リーニャ・ブラックマンです」
白い空間が、ぐらりと歪んだ。
「三か月以内に彼女を無力化できなければ――彼女は、何十万人も殺します。そして最終的には、勇者に討たれて死にます」
俺は言葉を失った。
あの、足が床に届かない女の子が。
椅子の高さを変えただけで、少しだけ得意げな顔をした、あいつが。
「……死ぬのか」
「そういう筋書きです。今のままなら」
女神が、こちらに一歩近づいた。
「三十三人は、彼女を『倒すべき敵』として見ました。だから死にました」
「あんたは、なんでそんなに」
「では、いってらっしゃい」
「待て。ひとつ聞かせろ」
俺は女神を睨んだ。
「ミルカって、何者だ」
女神の微笑みが、初めて、ほんの一ミリ揺れた。
「――そろそろ朝ですよ」
「おい!」
足元が抜けた。
◇
目が覚めた。
石造りの天井。紫の光。
いつも通りの朝だ。だが、決定的に違うところがひとつあった。
燕尾服が、椅子の背にかけてある。
昨日、俺が自分で脱いで、自分でかけたからだ。
「……二日目だ」
首を触る。ある。当たり前だ。今日はまだ、一度も死んでいない。
扉がノックされた。
「おはようございます、ユウマ様。起きていらっしゃいますか?」
ミルカの声だった。
「新しい執事様」ではなく、「ユウマ様」。
たったそれだけのことで、俺は不覚にも、少し泣きそうになった。
八回聞いた挨拶が、九回目にして初めて変わった。
「起きてる。今行く」
◇
『リーニャ様 怒らせないための注意事項 第九十九版』
『一、「昨日はありがとう」は絶対に言うな。照れて殺される。なかったことにして進め。』
『一、朝の紅茶は三種。七十一度をやや手前に置け。ただし根拠は一日分しかない。過信するな。』
『一、書類は前日夜のうちに机の左端へ。無言で置くこと。感謝を求めるな。』
「執事様……この注意事項、もう本ですね」
「そうだな。そのうち出版する」
「出版って何ですか?」
「……いや、なんでもない」
ミルカがきょとんとした顔をした。角がぴくりと動く。
俺はその角を見ないようにした。今は考えないと決めたのだ。
代わりに、書き上げたばかりの羊皮紙を見下ろした。
立派な厚みだ。だが、中身の大半は「一日目」の記録でしかない。
ホコリの舞う経路も、紅茶の温度も、ガイゼルの来訪も、全部あの一日を八回繰り返して手に入れたものだ。俺が知っているのは、リーニャ・ブラックマンの人生のうち、たった一日分。
そして今日は、二日目だ。
(今日から先は、全部初見なんだよな)
昨日は八回試せた。今日も八回死ねば、たぶん同じように答えは出る。
出るはずだ。
……出なかった日は、どうなるんだろう。
俺は羊皮紙を巻いて、脇に挟んだ。
考えないことにした。考えないことが、今日も多すぎる。
◇
朝の大広間。
リーニャは、いつも通り椅子に沈み込んで座っていた。俺が用意した、あの背の高い椅子に。
「おはようございます、リーニャ様」
「……」
返事はなかった。
代わりに、リーニャは頬杖をついたまま、じっと俺を見ていた。
三秒。四秒。
注意事項第三項『目を三秒以上見つめないこと。挑戦とみなされる』。
やばい、と思って視線を落とした瞬間。
「まだいたのね」
「え?」
「逃げてないのかって聞いてるの」
リーニャは窓の外を向いた。
「三十三人は、二日目の朝には荷物をまとめてたわ。三人くらいは、夜のうちに消えた」
「……そうですか」
「なんで、いるの」
俺は紅茶の台車を押しながら、少し考えた。
昨日「俺は逃げませんよ」と言って首を落とされたことを、俺は覚えている。
だが、あいつは覚えていない。
(言ったら、また死ぬんだろうな)
(でも、それは俺が“いい台詞”を言おうとした時の話だ)
俺はカップを置いた。七十一度のほうを、そっと近くに寄せて。
(一日分の観測に賭ける)
(外れたら、今日の一回目だ)
「昨日、明日も来いとおっしゃったので」
リーニャの手が止まった。
「……言ったかしら」
「おっしゃいました」
「……そう」
小さな手が、七十一度のカップを取った。
一口飲んで。
「……ふうん」
耳が赤かった。
夕暮れじゃない。朝だ。言い訳のしようがない朝日の下で、あいつの耳は真っ赤だった。
(――攻略度、一パーセント)
(女神め。今ので二パーセントはいっただろ)
◇
その日の午前、俺の平穏は十七分で終わった。
「出かけるわよ」
「は?」
「街の視察。荷物持ち、あんたが来なさい」
リーニャは椅子から飛び降りた。
そして、どこからともなく取り出した黒いローブを、ばさりと羽織った。深いフードで顔が隠れる。
「あの、そのお姿は」
「魔王軍幹部が正装で街を歩いたら、住民が全員気絶するでしょう」
「なるほど」
「お忍びよ」
フードの中で、赤い瞳が得意げに光った。
俺はその小さな全身を見た。
身長、俺の肩より下。ぶかぶかの黒いローブ。フードから覗く白い顔。
――どこからどう見ても。
近所の子どもが、親のコートを着て遊んでいる姿だった。
「……ユウマ」
「はい」
「今、何か考えたでしょ」
「いいえ」
「顔に出てるわよ」
「気のせいです」
リーニャは、それ以上何も言わなかった。
ただ、右手が、ゆっくりと持ち上がった。
「本日も麗しいご装束でございます」
言葉が、勝手に口から滑り出ていた。
リーニャは不思議そうに首を傾げ、その手でフードの位置を直した。それだけだった。
俺は背中に、じっとりと汗をかいていた。
(こいつは、予告しない)
(あの手が上がった時点で、もう遅い)
一日目で、嫌というほど学んだ。鎌が出てから死ぬまでの間に、命乞いをする時間はない。理由を説明する時間もない。手首がくるりと回って、それで終わりだ。
だから俺は、手が上がる前に折れる。
――そしてリーニャは、なぜ執事が急に媚びへつらい始めたのか、まったく理解していない。
理解できるはずがない。あいつにとって、俺を斬ったことなんて、まだ一度もないのだから。
それを知っているのは、この世界で俺だけだ。
◇
門を出た。
紫の空の下、石畳の道が街へ続いている。魔族の街だ。角のある者、翼のある者、二メートル級の巨漢。それぞれが露店を出し、値切り、笑い、怒鳴っている。
平和だ。
魔王軍の本拠地だというのに、びっくりするほど平和だった。
「リーニャ様、視察というのは具体的に何を」
「税の徴収状況と、物流の滞りを確認するの。三か月後には大きな作戦があるから」
三か月。
女神の言葉が、頭の中で重く反響した。
「……作戦、ですか」
「そう。人間国への――」
そこで、リーニャの言葉が止まった。
正面から、果物屋のおばさんが歩いてきていた。
でっぷりと太った、角のある魔族の女性だ。彼女はリーニャを見て、それから俺を見て、にっこりと笑った。
そして、屈託なくこう言った。
「あら、いい兄妹ねぇ。妹さん、おいくつ?」
世界が、止まった。
俺は動けなかった。
隣で、黒いローブが、ぷるぷると震えはじめていた。
「……リーニャ様」
「……」
「リーニャ様、落ち着いてください」
「……」
「その方は一般市民です。守るべき民です。リーニャ様が守っておられる街の――」
くるり。
(俺じゃないのかよ!?)
黒い鎌が、朝の光を吸い込んで現れた。
俺は考えるより先に、体が動いていた。
果物屋のおばさんの前に、飛び込むように立って。
「――九歳です!!」
「は?」
リーニャの動きが、止まった。
「妹は九歳です! 人見知りなので、すみません!」
「あらぁ、そうなの。ごめんなさいねぇ、驚かせて。はい、これ、リンゴあげる」
おばさんは笑って、リーニャの手にリンゴをひとつ握らせて、去っていった。
石畳に、リンゴを持った小さな影が立っていた。
長い、長い沈黙。
俺は、自分が今しがた何を言ったのかを、ゆっくりと理解した。
(……九歳って言った)
(十五歳の魔王軍幹部を、九歳って言った)
フードの奥で、赤い瞳が、ぎらりと光った。
「ユ ウ マ」
「あの、これには深い事情が」
――デス:8
(第八話につづく)




