第九話 十七人目
『リーニャ様 怒らせないための注意事項 第百版』
「百版……」
ミルカが感慨深そうに羊皮紙の束を撫でた。
「これ、先代様の頃からあるんです。もう十二年」
「十二年で九十七版か」
「リーニャ様が幹部になられてからの三年で、六十版ほど増えました」
「……三年で六十」
「ユウマ様は、三日で三版です」
「褒めるな。死んだ数だぞ、それ」
「え?」
「なんでもない」
俺は羊皮紙をめくった。
十二年。つまりこの注意事項は、リーニャが幹部になる前から存在していたことになる。
先代の第三幹部の代に、すでに三十七版。
(先代も、そこそこ短気だったってことか?)
(それとも――この屋敷には、昔から怯えなきゃいけない理由があったのか?)
俺はそのメモを、羊皮紙の隅に書き足した。
◇
三日目の朝。
紅茶。七十一度。「……ふうん」。
ここまでは完璧だ。
そして俺は、この日、実験をすることにした。
『第百版・第一項 「昨日はありがとう」は絶対に言うな。照れて殺される。』
この項目は、一日目に書いたものだ。だが、根拠が薄い。「俺は逃げませんよ」で殺された一件から推測しただけで、礼を言って殺された実例はまだない。
科学とは、検証である。
「リーニャ様」
「なに」
「昨日は、楽しゅうございました」
リーニャの手が、止まった。
カップの水面が、静かに揺れる。
赤い瞳が、ゆっくりと持ち上がった。頬が、じわじわと色を変えていく。
(お、いい反応だ。これは照れ――)
右手が、上がった。
(検証終了!!)
――デス:11
◇
石造りの天井。紫の光。
『第百一版・第一項 「昨日はありがとう」は絶対に言うな。実証済み。』
「……高くついたな、データ」
俺は羽根ペンを置いた。
首を触る。ある。
十一回。もう、この感覚にも慣れてきた自分が少し怖い。
◇
二度目。実験はもうしない。
昼過ぎ、リーニャは執務室にこもった。書類の山と格闘している。俺は「買い出しに」と断って、屋敷を出た。
目的は、昨夜の路地だった。
石畳の上に、リンゴの芯はもうなかった。掃除されたのか、誰かが拾ったのか。
「……気のせいだったのかもな」
つぶやいて、踵を返した、その時。
「よお。あんた、日本人だろ」
背後から声がした。
日本語だった。
◇
振り返ると、フードの男が立っていた。
痩せている。ひどく痩せている。頬がこけて、目だけが妙にぎらついていた。年齢は三十くらいか。だが、その顔立ちは間違いなく――
「……あんたも、か」
「正解。久しぶりだな、同郷」
男は笑った。歯が何本か欠けていた。
「あんた、誰だ」
「十七人目」
心臓が、跳ねた。
「執事だよ。あの屋敷の、十七人目。ただし、リーニャ・ブラックマンの執事じゃねえ」
「……え?」
「先代付きだ」
◇
俺たちは、路地の奥の空き樽に腰を下ろした。
男は自分のことを「ヨナ」と名乗った。
「本名は捨てた。三年も名前を変えて逃げてりゃ、そのうち呼ばれないほうが偽物になる」
「三年」
「トラックだった。お前もだろ」
「……トラックだ」
「じゃあ、三十三人全員が」
「知らねえよ」
ヨナは、あっさり首を振った。
「俺が直接確かめたのは二人だけだ。俺と、二十八人目」
「二人とも」
「トラックだ。二人ともトラック」
ヨナは、心底うんざりした顔をした。
「あの女神、他の死に方を知らねえのか?」
俺は笑いそうになって、笑えなかった。
「二人じゃ、なんとも言えないな」
「そうだな。……ただし」
ヨナが、こちらを覗き込んだ。
「お前、あの帳面は持ってるか」
「帳面」
「注意事項だよ。分厚いやつ。今は何版だ」
「百二版だ」
「ずいぶん進めたな」
ヨナは短く口の端を上げた。
「あれの余白を見てみろ。本文じゃねえ、隅っこだ」
「余白に、何が」
「日本語だ」
背筋が、ざわりとした。
「魔族は読めねえ。だから歴代の連中は、あそこに書き残してる。愚痴も、遺言も、次の奴への伝言もな」
「……あんたも書いたのか」
「書いたよ。三か月分」
ヨナの指が、無意識に何かを書く動きをした。
「俺が読んだのは十六人分だった。今なら、三十三人分あるはずだ」
俺の指先が、冷たくなっていた。
四日間、毎朝あの帳面を開いていた。書き足しもした。
本文しか、見ていなかった。
「もうひとつ、確かめとくか」
ヨナが、ぼろぼろの袖をまくった。
差し出された手の甲に、消えかけた紋章があった。俺の手の甲にあるのと、同じ形の。
「加護も一緒だな。死んだら朝に戻る」
「……ああ」
俺は、頭の中で数字を並べ直した。
注意事項は十二年前から。先代の代で九十七版のうち三十七版。
そしてこの男は、先代の執事で、十七人目。
「……待ってくれ。女神は、十二年以上前から執事を送り込んでたのか」
「そういうこった」
ヨナが、にやりと笑った。
「勘違いすんなよ、三十四人目。あの女神の狙いは、最初からリーニャじゃねえ」
「じゃあ」
「第三幹部の椅子だ。誰が座ってようが関係ねえ。座ってる奴を落とす。それだけを、十二年以上ずっとやってる」
紫の空が、やけに遠くに見えた。
「先代も、攻略対象だったってことか」
「らしいな。俺が着任した時にはもう、十六人が消えた後だった」
◇
「あんたは、どのくらい屋敷にいた」
「三か月」
「三か月」
「長いほうだぞ。俺の前の奴は六週間だ」
ヨナは指を折った。
「一人目から十六人目までで、九年ちょいだ。ならして半年もたねえ。俺が入って三か月で、先代が死んだ。戦場でな。……そして次の朝、十二の子どもがあの椅子に座ってた」
俺は息を呑んだ。
「あんた、リーニャの着任を見てるのか」
「見た。一週間だけな」
ヨナの目が、暗くなった。
「先代の葬式の日も、あいつは泣かなかった。次の日から書類を読んで、間違えて、怒鳴られて、また読んでた。十二歳がだぞ」
「……それで?」
「一週間目の夜に、俺は逃げた」
「なんで」
ヨナは、しばらく黙っていた。
◇
「中庭でな」
やがて、低い声で言った。
「あの子どもが、穴を掘ってたんだ」
「……穴」
「先代の執事たちの墓を、掘り直してた。傾いてたのを、一つずつ、まっすぐに直してた。真夜中に、一人で」
風が、路地を吹き抜けた。
「俺はそれを見て、声をかけようとした。かけられなかった」
「なんでだ」
「俺の墓があったからだよ」
「……は?」
「言っただろ。俺は逃げたって。逃げてもいねえのに、俺の墓が先に建ってた」
俺は言葉を失った。
「空っぽの墓が三つある。俺と、九人目と、十三人目のな。二人とも先代の代に逃げた奴だ」
「……あんたの後は」
「いねえよ」
ヨナは、短く笑った。
「俺が最後だ」
「三年で十六個増えて、空はゼロってことか」
「そういうこった。……あの屋敷から生きて出たのは、この十二年で三人だけだ」
俺は、その数字を頭の中で転がした。
十八人目から三十三人目まで、十六人。一人も逃げていない。
(逃げなかったのか? それとも――)
(逃げられなかったのか)
「言っとくがな、三十四人目」
ヨナが、ふと目を細めた。
「もし中庭で俺の墓を探すつもりなら、ヨナじゃねえぞ」
「……あ」
「ヨナは、逃げてから名乗り出した名前だ。屋敷にいた頃の俺は、別の名で呼ばれてた」
「なんて名だ」
ヨナは、口を開きかけて、止めた。
喉のあたりが、一度、上下した。
「……トオル」
自分の声に驚いたような顔をしていた。
「三年ぶりだな。その音を出すのは」
「トオル」
「やめろ」
ヨナが顔を背けた。
「呼ぶな。呼ばれると、戻りたくなる」
俺は、口をつぐんだ。
樽の上で、痩せた肩が小さく上下していた。
やがてヨナは、自分で話を戻すように咳払いをした。
「……とにかく、墓だ。名前の話じゃねえ」
「ひとつ聞かせてくれ」
俺は身を乗り出した。
「逃げた奴の墓まで建てるってのは、リーニャが始めたことなのか」
「いや」
ヨナは、首を横に振った。
「先代の頃からだ。あいつはそれを引き継いだだけさ」
「先代が」
「そうだ。九人目と十三人目の墓を掘ったのは、先代だよ。俺はその現場も見てねえけどな。あの屋敷じゃ、いなくなった奴には石を建てる。そういう決まりみたいなもんだ」
ヨナは吐き捨てた。
「気持ち悪ぃだろ。だから走ったんだ、俺は。自分の名前が彫られた石を見て、その晩に走った」
◇
「……なんで」
俺は、それしか言えなかった。
俺が聞きたかったのは、そこじゃない。
十二歳の子どもが、真夜中に一人で、他人の墓を掘り直していた理由だ。
(あいつにとって、死んだ奴といなくなった奴は、同じなのか)
戻ってこないなら同じだ。そう思っている子どもの顔が、頭に浮かんだ。
先代を失って、それからずっと、いなくなる人間ばかり見てきた女の子の。
「やめとけ」
ヨナが言った。
「その顔だ」
「……何が」
「屋敷を出た後も、俺は噂だけは追ってたんだよ。十八人目、十九人目。二十二人目は特に評判が良かった。優しい男だったらしい。同情して、わかった気になって、近づいて」
ヨナは首を横に振った。
「死んだ。三十三人目まで、全員だ」
「あんたは会ってないんだろ、その連中に」
「会ってねえよ」
「じゃあ、なんでわかる」
「墓が増えてくからだ」
俺は黙った。
「俺は月に一度、あの屋敷の塀の外まで行く。中庭が見える場所がある。数えるんだよ、墓を。……三年で、十六個増えた」
◇
ヨナは立ち上がった。
「なあ、三十四人目。ひとつ聞かせろ。お前、攻略度って見せられたか」
「……ああ」
「何パーだ」
「昨日の時点で、たしか」
俺は言いかけて、口をつぐんだ。
なぜか、言いたくなかった。
ヨナは、それを見て笑った。
「進んでるんだな。すげえよ、本当に。先代の時は、誰も一パーも動かせなかった」
そして、急に真顔になった。
「じゃあ、もうひとつだけ聞け。これだけは聞いてけ」
ヨナが一歩、近づいた。
痩せた手が、俺の襟をつかんだ。
「攻略度が百パーになったら、あいつはどうなる」
「……無力化される。女神はそう言った」
「無力化って、なんだ」
「え?」
「恋をした幹部は、剣が鈍る。判断が甘くなる。殺すべき相手を殺せなくなる」
ヨナの目が、ぎらついた。
「――そんな幹部を、魔王軍が生かしておくと思うか?」
◇
空気が、抜けた。
音が、遠のいた。
「……待て」
「一人だけ、会った奴がいる」
ヨナの声が、低くなった。
「さっき会ってねえって言ったな。あれは嘘だ。一人だけ、俺を探し当てた奴がいた」
「……誰だ」
「二十八人目」
ヨナの手が、震えていた。
「二年前だ。屋敷を抜け出して、この街まで俺を探しに来た。頭のいい男だったよ。俺が塀の外から墓を数えてるのに気づいて、待ち伏せしてやがった」
「そいつは、何を」
「同じことを言った。『攻略が成功したら、あの子はどうなるんだ』ってな」
風が止まった。
「そいつは調べてた。魔王軍の記録を、幹部の処分の前例を、片っ端から。それで確信して、俺のところに来た。一緒に、あの子を逃がす方法を考えてくれって」
「……あんたは」
「断ったよ」
ヨナは目を伏せた。
「怖かった。それだけだ」
「それで、そいつは」
「三日後に、墓が一つ増えた」
俺は、何も言えなかった。
「朝に戻らなかったんだ、あいつは」
ヨナは俺の襟を離した。
「加護は永遠じゃねえ。あるいは、都合が悪くなったら切られる。どっちでもいい。結果は同じだ」
その時。
街の中央で、鐘が鳴った。
低く、重く、三度。
ヨナの顔から、血の気が引いた。
「まずい。あいつらの巡回だ」
「おい、待て。まだ聞きたいことが――」
「六の月、十三日」
ヨナは早口で言った。
「兵の召集がかかってる。荷馬車の行き先を見りゃわかるんだよ、俺みたいに外にいる人間には」
「その日が、なんだ」
「あいつが最初に人間の村を焼く日だ。そこを越えたら、もう戻れなくなる」
「ヨナ!」
「じゃあな、三十四人目。逃げても、誰も責めねえよ」
誰にも責められなかった男の、三年分の声だった。
痩せた影が、路地の奥に消えた。
追いかけようとして、俺は足を止めた。
角を曲がった先は、行き止まりの壁だった。
誰もいなかった。
◇
屋敷に戻ったのは、日が沈む頃だった。
執務室の扉を開けると、リーニャがまだ書類に向かっていた。
「遅い」
「申し訳ございません」
「買い出しって、何を買ってきたの」
「……何も」
「は?」
俺は答えられなかった。
頭の中で、ヨナの言葉がぐるぐる回っていた。
墓を掘る小さな背中。無力化された幹部の末路。六の月、十三日。
「ユウマ」
「はい」
「顔が変よ」
リーニャが、羽根ペンを置いた。
「……何かあったの」
赤い瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
三日前なら、この目を三秒以上見つめただけで死んでいた。今は、じっと見つめ返しても、あいつは何もしない。
たったそれだけの変化に、三日と十一回の死を使った。
(俺がこのまま進んだら、こいつは死ぬのか?)
(じゃあ、進まなかったら?)
(三か月後、こいつは何十万人も殺して、勇者に討たれる)
どっちだ。
どっちに転んでも、この小さな女の子は死ぬのか。
「ユウマ?」
「……いえ」
俺は頭を下げた。
「少し、考え事を」
「珍しいわね。あんた、いつも何も考えてなさそうな顔してるのに」
「ひどい言われようで」
「褒めてるのよ」
リーニャは、ふいと窓の外を向いた。
「あんたが来てから、屋敷が静かなの」
「静か、ですか」
「みんな、そんなに怯えてない」
その横顔を見ながら、俺は思った。
――冗談じゃない。
どっちに転んでも死ぬなら、第三の道を探すまでだ。
俺には、他の誰も持っていないものがある。
何度でもやり直せる。
何度でも、間違えられる。
「リーニャ様」
「なに」
「明日、また街に行きましょう」
リーニャの肩が、ぴくりと動いた。
「……なんで」
「リンゴと、パンのお礼が、まだですので」
長い沈黙のあと。
「……勝手にしなさい」
耳が、真っ赤だった。
◇
その夜。
俺は月明かりを頼りに、中庭へ出た。
三列十一個。整然と並んだ墓標。並べ方が整っているのが逆に怖いと、初日の俺は思った。
今なら、なぜ整っているのかがわかる。
一人で、順番に、丁寧に掘ったからだ。
俺は端から順に、彫られた名前を確かめていった。読めない文字も多かったが、いくつかは判別できた。
そして、見つけた。
三列目の、端から三つ目。
彫られていたのは、この世界の文字だった。だが、音を追えば読めた。
ト オ ル
魔族の石工が、聞き取った音をそのまま刻んだのだろう。意味を持たない三文字が、月明かりの下に並んでいた。
(……本名で彫られてるのか)
あの男は、この石を見て走った。
自分がまだ生きているうちに、自分の名前が墓になっているのを見て。
俺は屈み込んで、その周辺を丹念に調べた。ヨナは言った。空の墓は三つ。自分と、九人目と、十三人目。
土を確かめる。掘り返された形跡のない石を、指で探す。
一つ。二つ。
そして、三つ目。
ちょうど三つだった。
(……合ってる)
裏を返せば、残りの三十個は本物ということだ。
十八人目から三十三人目まで、十六人。一人残らず、ここで終わっている。
膝をついて、指で石をなぞった。冷たかった。
十二歳の子どもが、真夜中に一人でスコップを握っている姿を想像した。
先代の執事たちの傾いた墓を直し、それから三年間、十六回。自分の手で殺した相手の分を、一つずつ。
(誰にも見せずに、か)
俺は立ち上がった。
そして、ふと気づいた。
三十三個。
三十四個目が、ない。
当たり前だ。俺はまだ、あいつの中では一度も死んでいない。十一回死んだのは俺の記憶の中だけで、この庭の土は一度も掘り返されていない。
「……そうか」
背筋が、じわりと冷えた。
もし俺が、加護を失って本当に死んだら。
あいつは三十四個目を掘るんだ。
夜中に、一人で。
俺の名前を彫って。
そして、その時にはもう、俺はそれを見ることができない。
「――冗談じゃないぞ」
俺は月を見上げた。
「掘らせるかよ、そんなもん」
デス:11
(第十話につづく)




