第十話 墓のあいだで
四日目の朝。
俺は羊皮紙に、壁を書き出した。
『一、攻略成功=リーニャ処刑(推測。ヨナの反語からの俺の解釈でしかない)』
『二、攻略失敗=三か月後の総攻撃で先鋒。以後、勇者に討たれる(女神証言)』
『三、その前段として、六の月十三日、村を焼く(ヨナ証言。兵の召集からの割り出し)』
羽根ペンの先が、羊皮紙に染みを作った。
俺は暦を引き寄せて、指で日数を数えた。
今日が四の月の四日。六の月十三日まで、六十九日。
総攻撃はさらにその先だが、村を焼いた時点で、あいつはもう戻れない。
(実質の期限は、二か月とちょっとか)
どちらに転んでも、あいつは死ぬ。
(じゃあ、俺がやることは何だ)
(――壁を全部壊すしかないだろ)
「ユウマ様、朝食のご用意が」
「ミルカ。ひとつ聞いていいか」
「はい?」
「魔王軍の作戦って、幹部が断ることはできるのか」
ミルカの角が、ぴくりと固まった。
「……できません」
「なんでだ」
「断ったら、席を降りることになるからです」
角を握りしめて、ミルカは小さく言った。
「そして、席を降りた幹部が、その後どうなったかは……誰も知らないんです」
◇
「ユウマ。今日も街?」
「はい。リンゴとパンのお礼が、まだですので」
「……別に、いいのに」
そう言いながら、リーニャはもう黒いローブを羽織っていた。準備が早い。フードの位置を三回直している。
(着る気満々じゃないか)
「では参りましょう」
「先に言っておくけど、これは視察よ」
「承知しております」
「遊びじゃないから」
「もちろんです」
「……果物屋の場所、覚えてる?」
「三番通りの角でございます」
フードの奥で、赤い瞳がすっと逸れた。
◇
街は今日も平和だった。
リーニャは果物屋のおばさんに銀貨を三枚置いて、逃げるように立ち去った。おばさんは「多すぎるよ!」と叫んでいたが、聞こえないふりをしていた。
パン屋のじいさんには、袋いっぱいの小麦を置いてきた。
「……これでいいの?」
「十分すぎるかと」
「そう」
リーニャは石畳を蹴りながら歩いた。フードから覗く口元が、わずかに緩んでいる。
俺は、そこで踏み込んだ。
「リーニャ様。ひとつ、お伺いしても」
「なに」
「六の月、十三日」
リーニャの足が、止まった。
石畳の上で、黒いローブが、彫像みたいに動かなくなった。
「……ユウマ」
「はい」
「今、なんて言った」
風が、露店の布をはためかせていた。
「六の月十三日に、何かご予定がおありかと」
「なんで、あんたがそれを知ってるの」
赤い瞳が、フードの奥からこちらを射抜いた。
そこにあったのは、怒りではなかった。
もっと冷たい、もっと業務的な、幹部の目だった。
(あ)
(まずい)
「誰から聞いたの。ガイゼル? 中央の誰か?」
「あの、これは」
「あんた、どこの手の者」
右手が、上がった。
――デス:12
◇
石造りの天井。紫の光。
俺は毛布を頭からかぶって、丸くなった。
「……そりゃそうだ」
四日前に来たばかりの執事が、機密の作戦日程を知っている。
疑わないわけがない。むしろあの状況で即断できるあいつは、幹部として有能ですらある。
(ヨナの情報は、俺の中だけに置いておけ)
(知っていることを、知られるな)
俺は起き上がって、羊皮紙に書き足した。
『第百二版・第一項 外から得た情報を、口に出すな。屋敷の中で、自力で見つけろ。』
◇
二度目。
街の帰り道、俺は何も聞かなかった。
代わりに、夜。
執務室の書類整理を買って出た。
「ユウマ様、まだやってるんですか」
ミルカがランプを持って覗きに来た。
「もう真夜中ですよ」
「あと少しだ」
俺は羊皮紙の山を、端から順に開いていた。
補給。人事。徴税。訓練。
その中に、一通だけ、封蝋の色が違うものがあった。
黒い蝋に、見たことのない紋章。
魔王軍統括本部。
◇
『第三幹部リーニャ・ブラックマンへ
六の月十三日、人間国境ヴェルド村への進攻を命ずる。
貴官はこれを先鋒として指揮すること。
なお、当該作戦は貴官の適性審査を兼ねる。
結果如何によっては、第三幹部位の再検討を行う。』
ランプの火が、揺れた。
俺は、その一文を三度読み返した。
適性審査。
第三幹部位の再検討。
「……試されてるのか」
三年前、十二歳で椅子に座った子どもを、上は今もまだ認めていない。
だから村をひとつ焼かせる。できなければ椅子を取り上げる。
そして席を降りた幹部が、その後どうなったかは、誰も知らない。
(――断れないじゃないか)
俺は書類を握りしめた。
壁が、三つから四つに増えた。
◇
その時。
窓の外で、風を切る音がした。
ひゅっ、と。
一度。二度。
俺はランプを消して、窓に近づいた。
中庭だった。
月明かりの下、墓標の列のあいだに、小さな影が立っていた。
黒い鎌を、振っていた。
◇
リーニャは、一人で素振りをしていた。
寝間着の上に外套を引っかけただけの格好で、髪を後ろで雑に束ねて。
鎌が、ひゅっ、と空気を裂く。
止める。構え直す。もう一度。
十回。二十回。三十回。
俺は、窓辺で数えるのをやめた。
(昨夜は、いなかった)
三日目の夜、俺はあの中庭にいた。墓標を一つずつ確かめて、それなりの時間を過ごした。人の気配はなかった。
(毎晩じゃないのか)
(それとも、俺が帰った後だったのか)
わからない。一晩見ただけで、何かを言い当てられるはずがない。
わかるのは、目の前で起きていることだけだ。
昼間の書類仕事のあいだ、あいつはずっと椅子に座っていた。夕食も普通に食べていた。就寝の挨拶もした。
そして、みんなが寝静まってから、ここへ出てくる。
四十七回目で、鎌が止まった。
リーニャがその場に膝をついた。肩で息をしている。
俺は階段を駆け下りた。
途中で厨房に飛び込んで、水差しと、清潔な布を引っつかんだ。
(血が出てるなら、いる)
そう思っただけだった。理由は後から考えればよかった。
◇
中庭に出ると、リーニャがこちらを見た。
驚きはしなかった。ただ、ゆっくりと立ち上がって、鎌を消した。
「……見てたの」
「はい」
「そう」
嘘をつく選択肢もあったが、この距離では意味がない気がした。
俺は手にしていたものを差し出した。
「水と、布でございます」
「……なんで持ってるのよ」
「お使いになるかと」
リーニャは、しばらく俺の手を見ていた。
それから、布のほうだけ受け取った。
小さな手のひらが、月明かりに晒された。
血が滲んでいた。指の付け根が、ぱっくりと割れている。皮が剥けて、そこに新しい皮ができて、また剥けた跡が幾重にもなっていた。
一晩や二晩でできる手じゃない。
何か月も、あるいは何年もかけて、同じ場所を壊し続けた手だった。
「……どのくらい、やっておいでですか」
「気が向いた時だけよ」
「昨夜は、なさらなかった」
リーニャの肩が、わずかに強張った。
「……見に来たの」
「墓を数えに参りました」
「変な奴」
リーニャは鼻を鳴らして、それから、ぼそりと言った。
「三日に一度くらい。眠れない日だけ」
その手を、俺は前にも見ている。
紅茶のカップを持ち上げる手。書類にペンを走らせる手。リンゴを握っていた手。
「……座れば」
リーニャが、墓標のひとつに腰を下ろした。
俺は少し迷って、その隣の墓標の前に立った。
◇
「あんた、ここが何か知ってる?」
「墓かと」
「そう。執事の」
リーニャは、自分の座っている石を、指でこつんと叩いた。
「これは、二十二人目。優しい男だったわ。わたしがペンを落としたら、拾ってくれた」
「……」
「拾わなくていいのよ、そんなの。拾われたら、わたしが落としたことになるでしょ」
月が、雲に隠れた。
「だから、殺したの」
平坦な声だった。
自慢でも、後悔でもなかった。ただ事実を読み上げているだけの声。
「わたし、変よね」
「はい」
リーニャが顔を上げた。
「……即答するんだ」
「変だと思います。人を殺して、墓を建てて、その墓に座って話す方は、変です」
「そうよね」
「ですが」
俺は、石に彫られた名前を見た。
「私は、変な方に仕えるのが仕事ですので」
◇
リーニャは、しばらく何も言わなかった。
ただ、布を巻いた手で、自分の膝を握っていた。
「先代はね」
やがて、ぽつりと言った。
「わたしのこと、拾ったのよ。戦場で。親が死んだ後に」
「……はい」
「あの人も、変な人だった。魔族なのに人間の本を集めてて、部下に敬語を使って、それで、めちゃくちゃ強かった」
「お慕いされていたのですね」
「別に」
即答だった。
その速さが、答えになっていた。
「あの人が死んだ日、わたしはこの椅子に座らされたの。誰も座らないから。誰も座りたがらないから。そしたら次の日から、みんなの目が変わった」
リーニャは膝を抱えた。
「誰も、わたしを見なくなった。椅子だけ見るようになった」
夜風が、墓標のあいだを抜けていった。
「……変なこと言ってるわね、わたし」
「いいえ」
「そう」
そして、リーニャは俺を見上げた。
「ねえ。ずっと聞きたかったんだけど」
「はい」
「あんた、なんで逃げないの」
◇
俺は、答えを探した。
任務だから。女神に命じられたから。三か月後にあんたが死ぬから。あんたを助けたいから。
どれも本当で、どれも今言うべきじゃなかった。
だから、いちばん単純なやつを選んだ。
「明日の紅茶を、まだ淹れていないので」
リーニャが、ぱちぱちと瞬きをした。
「……それだけ?」
「はい。明後日の分も、まだです」
「馬鹿じゃないの」
「よく言われます」
リーニャは、ふいと横を向いた。
そして、布を巻いた手で、口元を隠した。
隠しきれていなかった。
墓標に落ちた小さな影の輪郭が、たしかに、わずかに笑っていた。
「……そう。じゃあ、明日も淹れなさい」
「かしこまりました」
「明後日も」
「はい」
「その次も」
俺は膝をついて、額が石畳に触れるほど身を折った。
眠れない夜に、一人で鎌を振っていた女の子が。
墓のあいだで、初めて明日の先を口にした。
(――女神。攻略度、今ので何パーセントだ)
(いや、いい。教えなくていい)
(この数字だけは、俺のものだ)
デス:12
(第十一話につづく)




