第十一話 余白の三十三人
五日目の朝。
目が覚めて、最初にしたことは天井を見上げることではなかった。
枕元の羊皮紙の束に、手を伸ばすことだった。
『リーニャ様 怒らせないための注意事項 第百二版』
――あれの余白を見てみろ。本文じゃねえ、隅っこだ。
ヨナにそう言われたのは、三日目の昼だ。
なのに二日、手をつけられなかった。三日目の夜は中庭で墓を数えるのに使い切って、四日目は命令書とリーニャの素振りで潰れた。
(今日だ)
俺は窓辺に立って、羊皮紙を紫の朝日に透かした。
◇
ちなみに、この帳面は毎朝きれいに元通りになっている。
昨日書いた分は残る。今日書いた分は、俺が死ねば消える。時間ごと巻き戻るのだから当然だ。
だから「第百二版」というのは、屋敷の誰かが数えた版数じゃない。
俺が頭の中だけで数えている番号だ。
ミルカは今も、これを第百版だと思っている。
死ぬたび、俺は同じ項目を、同じ順番で、書き直している。
(書き写す作業だけは、十三回分うまくなったな)
そして今、俺が探しているのは、本文じゃない。
本文の脇。行間。綴じ紐の内側。
そこに――あった。
◇
日本語だった。
魔族の文字がびっしり並ぶその隙間に、小さな、小さな日本語が。
一行目は、いちばん古い羊皮紙の端にあった。
『誰も読まないだろうが、書いておく。ここの連中は俺の国の文字が読めない。俺がここにいたことだけ、残す』
指が震えた。
十二年前だ。
十二年前に、俺と同じようにトラックか何かで死んだ誰かが、この隅っこに、自分がいた証拠を刻んだ。
宛先はなかった。署名もなかった。
誰かに届くとは、思っていなかったのだ。
◇
だが、届いた。
すぐ下に、別の筆跡があった。
『読んだ。俺で二人目らしい。中庭の墓を数えた。石にあんたの名前が彫ってあった。
あんたは俺に宛てて書いたわけじゃないんだろうが、返事を書く。
ホコリに気をつけろ。あれで死ぬ』
俺は、その二行を何度も読んだ。
一人目は、誰にも宛てていなかった。返事が来るなんて、思っていなかったはずだ。
それを二人目が勝手に読んで、勝手に墓を数えて、勝手に返事を書いた。
(――ここから始まったのか)
十二年続いた文通の起点は、事故だった。
そして、墓を数えれば自分が何人目かわかる。それ以降の全員が、そうやって自分の番号を知ったのだ。
俺はページをめくった。
◇
『三人目。風呂上がりに大広間へ入るな。髪が落ちる。落ちたら死ぬ』
『六人目。今日で一年。最長記録らしい。うれしくない』
『八人目。誰か日本の話をしてくれ。誰でもいい。誰もいない』
『十一人目。ヴェルナ様は悪い人じゃない。ただ、部下が死んでも顔色が変わらない。あれは慣れだと思う。慣れるほど死んでるってことだ』
『十四人目。ホコリ。ホコリ。ホコリ。ホコリ。ホコリ』
『十六人目。加護があると聞いた。死んでも朝に戻ると。だとしたら、俺は今日、何度目なんだ?』
俺は羊皮紙を握りしめた。
十六人目の字は、震えていた。
◇
そして。
『十七人目。中庭に自分の墓があった。名前が彫ってあった。逃げる。すまない。 トオル』
短い一行だった。
三年前の男が、走り出す直前に書いたのだ。
俺は少しだけ笑った。笑ってから、目の奥が熱くなった。
(あんた、ちゃんと残していったんだな)
「すまない」なんて、誰に向けた言葉だ。まだ会ってもいない十八人目にか。
それとも、置いていく屋敷そのものにか。
◇
ページを繰りながら、俺はひとつ、妙なことに気づいていた。
余白の書き手は、全員が「俺」と書いている。
一人目から三十三人目まで、一人残らずだ。
(男ばっかりか)
(そりゃそうだ。恋をさせるのが仕事なんだから)
指が止まった。
一人目は十二年前。当時の主はヴェルナ・ブラックマン。
つまり――先代も、女だったということだ。
十二年間、女神は同じことをやっている。若い男を選んで、記憶ごと放り込んで、椅子に座っている女に惚れさせようとして。
失敗するたび、次を送る。
(三十三回、失敗して)
(三十四回目が俺か)
背中を、ぞわりとしたものが這った。
俺は羊皮紙をめくる手を、少し乱暴にした。
◇
十八人目からは、字の色が変わった。
呼び名も、変わった。
十六人目までは全員が「ヴェルナ様」と書いていた。十八人目から先には、その名前が一度も出てこない。
紙の上で、代替わりが起きていた。
『十八人目。この余白を読んだ。ヴェルナ様という名前が何度も出てくる。だが今、椅子に座っているのは子どもだ。十二か、十三に見える。
主が代わったらしい。誰も教えてくれない。目が合うと殺される』
『十九人目。三日で二回殺された。加護は本物だった。気が狂いそうだ』
『二十一人目。飯がうまい。それだけが救い。メイド長のミルカという子が焼くパンが特にうまい』
俺の指が、止まった。
(――ミルカ)
三年前の記録に、ミルカがいる。
いや、三年前ならおかしくない。あの子はずっとここにいるのだろう。
そう思って、俺はもう一度、最初のページに戻った。
そして、十二年前の三人目の記述の下に、こう書いてあるのを見つけた。
『メイドのミルカという子が親切にしてくれる。角が小さくてかわいい』
十二年。
俺は羊皮紙を持ったまま、しばらく動けなかった。
(十二年前から、いる)
(そして、あの子は今も十六、七だ)
◇
「ユウマ様、朝食が――ユウマ様?」
扉が開いた。
「ユウマ様、紅茶! 紅茶のお時間、とっくに過ぎてます!」
「え」
窓の外を見た。
紫の朝日が、とっくに白っぽくなっていた。
「あっ」
「リーニャ様、大広間でお待ちですよ! もう三十分も!」
俺は羊皮紙を放り出して走った。
大広間に飛び込むと、リーニャが椅子に座っていた。
その前に、俺が用意した三つのカップが置かれていた。
湯気が、一本も立っていなかった。
「あの、これは」
リーニャは何も言わなかった。
ただ、真ん中のカップに指を触れて、その温度を確かめて。
右手が、上がった。
――デス:13
◇
石造りの天井。紫の光。
「読書で死んだ」
俺は毛布の中で呻いた。
「三十四人目の死因、読書」
◇
二度目。
今度は先に紅茶を淹れた。七十一度。「……ふうん」。よし。
書類を左端に。よし。
そして夜。
自室にランプを灯して、俺は羊皮紙の続きを開いた。
◇
『二十二人目。ペンを拾うな。絶対に拾うな。俺は今日、たぶんそれで死ぬ』
昨夜、あいつが座っていた石だ。
「優しい男だったわ。わたしがペンを落としたら、拾ってくれた」
――わかっていて、拾ったのか。
俺は羊皮紙の上のその一行を、指でなぞった。
そして、指が止まった。
(待て)
(なんで、この人は死んだままなんだ)
拾って死んだなら、朝に戻ればいい。次は拾わなければいい。俺なら十回でもやり直す。
なのに、あいつの記憶には「拾ってくれた男」が残っている。
つまり、その日はそれで終わったのだ。
(……戻らなかったのか)
中庭の墓が、頭の中に並んだ。
三十三個。そのうち三つは空だ。九人目と、十三人目と、トオル。逃げた三人。
残りは、三十個。
(三十人)
(三十人全員が、最後には朝に戻らなかった)
背筋が、ゆっくりと凍っていった。
ヨナは言っていた。二十八人目は朝に戻らなかった、と。
俺はそれを、例外だと思っていた。何かを調べすぎて、女神に加護を取り上げられた特別な一件だと。
違う。
二十二人目も、戻らなかった。
たぶん、その前の連中も。
三十人が、順番に、戻れなくなっただけだ。
(加護は、いつか切れる)
(全員、切れた)
俺は自分の手の甲を見た。
十三回。まだ、光っている。
(あと何回だ)
(誰も、それを教えてくれない)
『二十五人目。俺はもう十九回死んだ。加護のおかげで生きている。生きていると言えるのか?』
『二十七人目。この子は誰かに見てほしいだけだと思う。でも、見ると殺される。詰んでいる』
そして、二十八人目の欄に来た。
◇
そこだけ、字が異様に細かかった。
書ける場所がもうなくて、一文字ずつ詰め込んだのだ。
『二十八人目。次に読む奴へ。俺は中央の記録庫に入った。三つわかった。
一、無力化された幹部は前例が四件。四件とも処分されている。
二、先代の第三幹部の死因は「戦死」。だが記録の日付と部隊の位置が合わない。戦場にいなかった可能性がある。
三、記録庫にあるのは敵の資料だ。だから歴代勇者の研究記録がある。勇者は女神から加護を授かる。その項目に「加護の返却」という言葉があった。
三つ目で手が止まった。
勇者の加護と、俺たちの加護は、同じ女神が同じ手順で配っている。
つまり俺たちは、あの女神にとって勇者と同じ枠だ。使い道が違うだけの、同じ道具だ。
返却という言葉の意味は、まだわからない。だが、貸したものは返させるということだろう。
俺は明日、あの子にこれを見せる。全部話す。一緒に逃げてくれと頼む。
断られたら、殺されるだろう。それでもいい。
三年間、誰もあの子に本当のことを言わなかった。それが一番の罪だと思う。』
ランプの芯が、じじ、と鳴った。
俺はその文字を、三度読んだ。
(――こいつ、俺と同じことを考えたのか)
そして、三つ目の項目で、指が冷たくなった。
勇者。
女神は言った。このままなら、リーニャは何十万人も殺して、最終的には勇者に討たれて死ぬと。
その勇者も、同じ女神から加護をもらっている。
(――待て)
(その勇者ってのは、誰だ)
俺は羊皮紙から顔を上げた。
顔も名前も知らない。人間国のどこかにいる、リーニャを殺す予定の男。
そいつも女神に選ばれて、加護を渡されて、この世界に置かれたのだとしたら。
(日本人か?)
(トラックか?)
(そいつも、白い部屋で「拒否権はないです」って言われたのか?)
俺は自分の手の甲を見た。
淡く光る紋章。何度でも死ねる、便利な道具。
十三回、俺はこれを使った。
(貸したものは、返させる)
(返す時が来たら、どうなるんだ)
そして、その下に、続きがあった。
別の日の、別のインク。
『二十九人目。二十八人目の墓が建った。俺はこれを読んだ。俺は何もしない』
『三十人目。同上』
『三十一人目。同上』
『三十二人目。ホコリで死んだ。三回。誰か助けて』
『三十三人目。今日着任した。中庭に墓が三十二個ある。明日には三十三個になる気がする』
そこで、余白は終わっていた。
◇
俺はランプの火を細くして、天井を見上げた。
三十三人。
化け物に殺された哀れな犠牲者、ではなかった。
日本のどこかで死んだ、普通の人間たちだった。パンがうまいと書き、ホコリに怯え、日本の話をしたいと嘆き、そして誰かのために隅っこに文字を残した。
そのうちの一人は、あの子に本当のことを言おうとして死んだ。
その次の三人は、それを読んで、何もしなかった。
俺は責める気になれなかった。
(俺だって、十三回死んでる)
(あと二十回死んだら、俺も「同上」って書くかもしれない)
◇
羊皮紙を閉じようとした、その時。
いちばん最後のページの、いちばん下。
さっきまで、そこには何もなかったはずの場所に。
インクが、濡れていた。
書かれたばかりの日本語だった。
『ユウマ様へ
わたしも、たぶん、おなじです
でも、こわくて、たしかめられません』
指先が、冷たくなった。
俺はゆっくりと顔を上げた。
廊下の向こう、階段の下から、かすかな足音が遠ざかっていく。
軽い足音だ。
十二年前から変わらない歩幅で、あの子はいつも屋敷を歩いている。
「……ミルカ」
俺は羊皮紙を握りしめて、立ち上がった。
デス:13
(第十二話につづく)




