第十二話 十二年、歳を取らない
厨房に、明かりがついていた。
窯の前に、小さな背中があった。
ミルカは、こんな真夜中にパンをこねていた。粉だらけの手で、生地を叩きつけるように押している。八つ当たりみたいなこね方だった。
「ミルカ」
肩が、跳ねた。
「ゆ、ユウマ様。あの、これは、その、夜食を」
「読んだ」
ミルカの手が、生地に埋まったまま止まった。
「余白のやつだ。全部」
◇
長い時間、彼女は窯のほうを向いたまま動かなかった。
窯の火が、粉の舞う空気を橙に染めていた。
「……いつから、ご存じでしたか」
「三日前に、余白のことを聞いた。読んだのは今夜だ」
「わたしのことは」
「十二年前の記述に、あんたの名前があった」
ミルカの角が、ゆっくりと下がった。
「三人目が書いてる。メイドのミルカという子が親切にしてくれる。角が小さくてかわいい」
「……」
「十二年前だ、ミルカ」
俺は一歩、近づいた。
「あんた、今いくつだ」
◇
ミルカは、粉だらけの手を布で拭いた。
丁寧に、指の一本ずつを。時間を稼ぐみたいに。
「……わかりません」
「わからない?」
「本当に、わからないんです」
顔を上げた彼女の目は、赤かった。泣いた後というより、泣くのを我慢しているときの目だった。
「わたし、この屋敷に来る前のことを、何ひとつ覚えていないんです」
「一つも?」
「一つも。気がついたら、ここでメイドをしていました。名前だけ知っていました。ミルカ、って」
「……いつからだ」
「わかりません。でも」
ミルカは、自分の頬に手を当てた。
「わたし、歳を取らないんです」
◇
窯の中で、薪が崩れた。
「最初は、気のせいだと思ってました。でも、一緒に働いていた子たちが、みんな大人になって、結婚して、辞めていって。新しい子が入ってきて、その子もいなくなって」
「……」
「鏡の中のわたしだけ、ずっと同じなんです」
「何年だ」
「数えるのをやめました」
ミルカは笑おうとして、失敗した。
「怖くなったので」
◇
俺は、羊皮紙を取り出した。
いちばん最後のページを開いて、彼女の前に置く。
濡れたインクは、もう乾きかけていた。
『ユウマ様へ わたしも、たぶん、おなじです でも、こわくて、たしかめられません』
「これは、あんたが書いたな」
「……はい」
「なんて書いてあるか、わかるか」
ミルカが、顔を上げた。
その表情で、俺は確信した。
「――わからないんだな」
「わからないんです」
彼女の声が、震えた。
「意味は、わかるんです。書きたいことは、そのまま出てきました。でも、この字が何なのか、わたし、知らないんです」
粉だらけの指が、羊皮紙の上をなぞった。
「わたしが書いたのに。わたしの手が書いたのに。どこで習ったのか、思い出せないんです」
◇
俺は、少しのあいだ黙っていた。
言うべきかどうかを、迷ったのではない。
言い方を、探していた。
「ミルカ。座ってくれ」
「え」
「立ったまま聞く話じゃない」
彼女は、粉袋の上にちょこんと腰を下ろした。
俺は向かいの椅子に座って、まっすぐに言った。
「その字は、日本語だ」
「にほん、ご」
「俺の国の言葉だ。ここじゃない、別の世界の」
「別の……世界」
「俺は、そこで死んだ。トラックに轢かれてな」
ミルカが、ぽかんと口を開けた。
「そのあと、白い部屋で女神に会った。魔王軍幹部を攻略しろって言われた。断ったけど、拒否権はないと言われた。それでここにいる」
「……ユウマ様」
「そして俺は、死ぬとその日の朝に戻る」
窯の火が、ぱちりと鳴った。
「今日、俺は一度死んでる。紅茶が冷めたのがバレてな」
「あの、あの、ちょっと待ってください」
「三十三人の執事は、全員そうだった。全員俺の国の人間で、全員女神に送り込まれた」
俺は羊皮紙を指で叩いた。
「余白に書いてあるのは、その三十三人の遺言だ」
◇
ミルカは、両手で口を押さえていた。
角が、力なく垂れている。
「……じゃあ、わたしも」
「そう思う」
「わたしも、その、日本」
「たぶん、日本人だ。記憶を消されて、歳を取らない体をもらって、ここに置かれた」
「なんで、そんなこと」
「わからない」
俺は正直に言った。
「あんたに与えられたものが何なのかは、俺にはわからない。ただ――」
言いかけて、俺は口をつぐんだ。
言えなかったのだ。
(三十三人が死ぬところを、全部見せるためだ)
(あんたが十二年、この厨房でパンを焼き続けたのは、そのためだ)
そんなことを、この子に言えるわけがなかった。
◇
「ユウマ様」
ミルカが、ぽつりと言った。
「わたし、時々、変な夢を見るんです」
「夢」
「四角い部屋で、四角い机に座ってるんです。前に黒い板があって、たくさんの子どもが同じ服を着てて」
心臓が、締めつけられた。
「その夢の中で、鐘が鳴るんです。キーンコーンって」
「……」
「そしたら、みんな一斉に立ち上がるんです」
ミルカは、自分の言葉に自分で困った顔をした。
「変ですよね。鐘が鳴ったら、普通は避難するのに」
「変じゃない」
俺の声が、掠れた。
「それは、学校だ」
◇
その時。
背後で、扉が開いた。
「――何してるの」
厨房の空気が、一瞬で凍った。
リーニャが、寝間着の上に外套を羽織って立っていた。
髪が少し乱れている。眠れなかったのだろう。中庭に行くつもりだったのかもしれない。
その赤い瞳が、俺を見て、ミルカを見て、粉袋の上に並んで座っている二人を見た。
「り、リーニャ様! これは、あの」
ミルカが飛び上がった。
俺も立ち上がって、頭を下げた。
「夜分に申し訳ございません。厨房の在庫を確認しておりました」
嘘だった。
そして、たぶん、その嘘は完璧だった。理屈は通っている。時間帯も不自然じゃない。三十四人目の執事として、俺の答えは満点だったはずだ。
リーニャは、何も言わなかった。
ただ、俺とミルカを、もう一度だけ見比べた。
「……ふうん」
そして、右手が上がった。
「え」
――デス:14
◇
石造りの天井。紫の光。
俺は、しばらく動かなかった。
(……なんでだ)
在庫確認は嘘だが、バレる要素はなかった。ホコリでもない。紅茶でもない。身長でもない。庇ってもいない。
『第百二版』のどの項目にも、今のは載っていない。
(何が地雷だったんだ)
俺は毛布の中で、天井を睨みつけた。
そして、ふと思い出した。
厨房に立っていたあいつの顔を。
怒っていなかった。
呆れてもいなかった。
あれは、置いていかれた子どもの顔だった。
「…………」
俺は、毛布を頭からかぶった。
かぶってから、しばらく出てこられなかった。
「……いや、待て。だからって殺すか? 普通」
◇
五日目、三度目の朝。
「おはようございます、ユウマ様。起きていらっしゃいますか?」
扉の向こうから、いつもの声がした。
いつもの、何も知らない声だった。
俺は羊皮紙を握りしめた。
昨夜のことは、全部消えた。粉だらけの手も、垂れた角も、キーンコーンも、「学校だ」と言った俺の声も。
この子の中には、何ひとつ残っていない。
(――もう一度、話すか?)
話せば、また同じところまで行ける。だが俺はまた死ぬだろう。死ねばまた消える。
十回話して、十回消える。それは、この子に十回同じ怖さを味わわせるということだ。
(じゃあ、どうする)
◇
俺は羽根ペンを取った。
羊皮紙の、いちばん最後のページ。
彼女が書いた三行の、すぐ下。
そこに、日本語で書いた。
『ミルカへ。
その字は日本語という。俺の国の言葉だ。
あんたは俺と同じところから来た。歳を取らないのは、あんたのせいじゃない。
夢に出てくる四角い部屋は学校という。鐘が鳴ったら授業が終わる。避難じゃない。
怖がらなくていい。あんたは、たしかにいた。
三十四人目』
◇
書き終えて、俺はペンを置いた。
そして、気がついた。
(――俺、今、あいつらと同じことをしてる)
十二年前の一人目が、誰にも宛てずに書いた。二人目が勝手に読んで、返事を書いた。
そうやって三十三人が繋いだ場所に、俺は今、三十四人目として一行を足したのだ。
俺は署名を見下ろした。
『三十四人目』
――三十五人目へ、とは書かない。
俺は羊皮紙を閉じて、燕尾服の袖に腕を通した。
「起きてる。今行く」
扉を開けると、ミルカが立っていた。
何も知らない顔で、いつも通り深々とお辞儀をして。
「本日もよろしくお願いいたします、ユウマ様」
「ああ」
俺は、その角を見た。
小さくて、まだ下がっていない角を。
「――こちらこそ、よろしく頼む」
デス:14
(第十三話につづく)




