第五話 その椅子、大きすぎやしないか
魔王軍第五幹部ガイゼルは、扉を壊して入ってきた。
正確に言うと、開けようとしたら壊れた。身長が三メートル近くある。牛のような角、丸太のような腕。鎧の隙間から覗く肌は岩みたいな灰色だった。
「よお、リーニャちゃん」
床が揺れた。
「久しぶりだなあ。半年ぶりか? ちっとは背ぇ伸びたか?」
俺は壁際で息を止めた。
注意事項第九十七版・第三項『身長に関する話題は死』。
会って三秒で最重要禁忌を踏み抜いた男が、そこにいた。
「……ご機嫌よう、ガイゼル」
リーニャの声は、氷みたいに平坦だった。
「今日は何の用?」
「用ってほどのもんじゃねえよ。西部戦線の視察のついでだ。ついでに、後輩の様子でも見てやろうと思ってなあ」
ガイゼルはずかずかと執務室に踏み込み、羊皮紙の山を無造作に手に取った。
「相変わらず書類仕事は真面目だな。えらいえらい」
「返して」
「おお、怖い怖い」
笑いながら、ガイゼルは羊皮紙を放った。紙が床に散らばる。
リーニャの手が、わずかに震えていた。
◇
「なあリーニャちゃん。お前、幹部になって何年だ?」
「三年」
「三年か。十二の時からだもんなあ」
十二。
俺は思わず顔を上げた。
「あの椅子な」
ガイゼルの指が、リーニャの座る黒い椅子を差した。俺が一晩磨き上げた、あの椅子を。
「先代の第三幹部が使ってた椅子だろ。あの人が死んで、席が空いて、たまたま近くにいたガキが座った」
「……」
「なあ。その椅子、まだ大きすぎやしないか?」
執務室の空気が、凍った。
リーニャは何も言わなかった。
言い返さなかった。
赤い瞳がまっすぐガイゼルを睨みつけていて、それは間違いなく怒りの目だったのに――その小さな手は、肘掛けを握りしめたまま、動かなかった。
鎌を、出さなかった。
俺はその瞬間、理解した。
こいつはホコリ一粒で人を殺せるくせに、この男には手を出せない。
序列。実力差。あるいはもっと単純に、三年間ずっと言われ続けてきた言葉に、もう反射的に体が固まるようになっているのか。
「聞いたぜ。ここの執事、また死んだんだってな」
ガイゼルはにやりと笑った。
「三十三人だっけか。屋敷ひとつまとめられねえで、よく幹部が務まるもんだ」
「……」
「怖がられてんじゃねえよ。なめられてんだよ、お前は」
そこで。
俺の口が、勝手に動いた。
「三十四人目です」
◇
灰色の巨体が、ゆっくりとこちらを向いた。
「あ?」
「本日着任いたしました、執事のユウマと申します」
俺は膝をついた。声は、我ながら驚くほど落ち着いていた。
「三十三人ではなく、三十四人目でございます。訂正させていただきました」
「……ははっ」
ガイゼルが笑った。
「おい、リーニャちゃん。お前んとこの新入り、いい度胸してんじゃねえか」
「ガイゼル、やめ――」
リーニャが立ち上がりかけた。
その言葉が、最後まで届くことはなかった。
丸太のような腕が、視界いっぱいに膨れ上がった。
風圧。
浮遊感。
壁にぶつかった音を、俺は自分の背骨の内側から聞いた。
視界が滲む。口の中が鉄の味でいっぱいになる。
床に崩れながら、俺は執務室の奥を見た。
リーニャが、立っていた。
椅子から半分腰を浮かせた、中途半端な姿勢のまま。
赤い瞳が、大きく見開かれていた。
その顔は、怒ってもいなければ退屈でもなくて。
ただ、間に合わなかった子どもの顔をしていた。
――ああ、そんな顔、するんだな。
――デス:5
◇
石造りの天井。紫の光。
俺は跳ね起きた。首を触る。ある。背骨も、ある。
「……くそっ」
初めてだった。
リーニャ以外に殺されたのも初めてだったが、それより。
死ぬ瞬間に腹が立ったのは、初めてだった。
「執事様……? あの、朝から泣いて――」
「泣いてない」
「泣いてます」
「汗だ」
俺は袖で顔を拭った。
「ミルカ。ガイゼルって何者だ」
「え、ガイゼル様をご存じなんですか?」
「今日、昼に来る」
「え!?」
「いいから教えてくれ。あいつとリーニャ様の関係、全部だ」
◇
ミルカの話は、断片的だった。
先代の第三幹部は、リーニャを拾って育てた女だったこと。名をヴェルナ・ブラックマンといったこと。三年前の戦いで死んだこと。空席になった椅子に、当時十二歳のリーニャが座ったこと。
そして、他の幹部たちがそれを「お情けの人事」と呼んだこと。
「リーニャ様は、それから……よく人を殺すようになりました」
ミルカは、角をきゅっと縮めて言った。
「なめられないように、だと思います」
◇
六周目。
俺は執務室の扉の前で待ち構えていた。
ガイゼルが入ってくる。羊皮紙が散らばる。「その椅子、まだ大きすぎやしないか?」
俺は今度こそ、正しく動いた――つもりだった。
「恐れながら申し上げます」
俺は二人の間に割って入った。
「その椅子はリーニャ様のものです。私が本日、リーニャ様のために選びました。先代がどうであれ、今この椅子に座るべき方はリーニャ様以外におりません」
我ながら、悪くない台詞だと思った。
主を庇う忠義の執事。完璧じゃないか。
だが。
背後で、空気が変わった。
俺は振り返った。
リーニャが、こちらを見ていた。
その顔から、血の気が引いていた。
そして――赤い瞳の奥で、何かが、静かに死んだ。
「ユウマ」
「はい」
「誰が、庇えって言ったの」
くるり。
鎌が、俺の首を落とした。
ガイゼルの笑い声が、遠くで聞こえた。
「おいおい、自分ちの執事に守られちまったなあ、リーニャちゃん」
――デス:6
◇
石造りの天井。紫の光。
俺はしばらく、動けなかった。
天井の染みを数えながら、頭の中で同じ場面を何度も再生した。
血の気の引いた顔。静かに死んだ瞳。
――誰が、庇えって言ったの。
「……そうか」
俺は目を閉じた。
違ったんだ。
庇ったら、負けなんだ。
「なめられてる」と言われた人間が、部下に守られる。それは、なめられていることの証明になってしまう。俺があの場でリーニャを庇った瞬間、俺はガイゼルの言葉を全部肯定したのと同じだった。
いい台詞を言ったつもりで、あいつのプライドを踏み抜いたんだ。
正解は、庇うことじゃない。
「……あいつが勝ってる状態を、当たり前の風景にする」
つぶやいた自分の声が、やけにはっきりと部屋に響いた。
執事にできることは、剣を振ることじゃない。
紅茶を出すことだ。椅子を整えることだ。屋敷を回すことだ。
――屋敷ひとつまとめられねえで、よく幹部が務まるもんだ。
ガイゼルはそう言った。
なら、まとめてやればいい。
完璧に。嫌味なほど完璧に。あの男が何を言おうと、この屋敷の全部が「リーニャ・ブラックマンは有能な主である」と証言するように。
俺は起き上がった。手の甲の紋章が、淡く光っている。
六回死んだ。
まだ一日目が終わらない。
「ミルカ!」
扉の外で悲鳴が上がった。
「朝から大声はやめてくださいって言ってるじゃないですかぁ!」
「屋敷中のメイドを集めろ。全員だ」
「ええっ!? な、何をするんですか!」
俺は燕尾服の袖に腕を通しながら、笑った。
たぶん、この世界に来て初めて、まともに笑った。
「戦争だ」
(第六話につづく)




