第四話 昼までの道のりが遠すぎる
『リーニャ様 怒らせないための注意事項 第九十八版』
『一、紅茶は六十八度・七十一度・七十四度の三段階を用意すること。「お選びいただく」形にすれば怒られない。むしろ機嫌が良くなる。』
『一、大広間の東側の窓は、夜明け前に布で目張りすること。あそこから入る風が全ホコリの元凶である。』
『一、「俺は逃げませんよ」は禁句。理由は不明。ただし本人は真っ赤になっていた。要調査。』
「……執事様」
「なんだ」
「この注意事項、どうしてこんなに詳しいんですか」
ミルカが羊皮紙を覗き込んで、怯えたような顔をしていた。角がちょっと下がっている。角って下がるのか。
「昨日、着任したばかりですよね?」
「まあな」
三回死んだからな、とは言えなかった。言ったところで信じてもらえないし、信じてもらえたらもっと面倒だ。
「ミルカ。今から質問を三十個する。全部答えてくれ」
「さ、三十!?」
「リーニャ様の一日の予定、全部。朝から夜まで、分刻みで」
俺は羽根ペンを構えた。
これがループの本当の使い方だ。命は捨て駒じゃない。情報を持ち帰るための往復切符だ。
◇
四周目。
東の窓は目張り済み。ホコリはゼロ。
「新しい執事?」
「はい。本日より仕えさせていただきます、ユウマと申します」
「ふうん。前のよりは、顔がマシね」
(デス:3の時点でこのセリフ四回目。もはや聞き慣れた挨拶)
「掃除は?」
「済ませました」
「紅茶」
「三種類、ご用意しております」
台車を押して出す。六十八度・七十一度・七十四度。
リーニャの眉が、ぴくりと動いた。
「……ふうん」
真ん中を取って、一口。
「悪くないわね」
朝の関門、突破。
俺は膝の裏に力を入れて、なんとか震えを抑えた。ここまで来るのに三回死んでいる。人生初の快挙が「朝を生き延びた」というのは、どうなんだ。
「ねえ」
来る。「なんでそんなに必死なの」だ。
ここで「逃げません」と言うと死ぬ。第九十八版に書いた通りだ。
「みんな、三日で逃げるか、死ぬかのどっちかなのに」
「……そうですね」
俺は当たり障りのない返事を選んだ。
リーニャは、ほんの少しだけつまらなそうな顔をした。
――あ。
その表情が、なんだか妙に胸に残った。
◇
昼前。
リーニャは執務室にいた。
黒檀の巨大なデスク。積み上がった羊皮紙の山。魔王軍第三幹部というのは、どうやら書類仕事もするらしい。世界を滅ぼす組織にも決裁というものがあるのだ。
リーニャは椅子に座って、羽根ペンを走らせている。
その、足が。
床に、届いていなかった。
宙に浮いた小さな足が、無意識にぷらぷらと揺れている。書類に集中しているらしく、本人はまったく気づいていない。
……かわいいな。
いや違う。任務だ。これは任務だ。落ち着け俺。
ただ、ひとつ気になった。あの体勢、絶対に腰が疲れる。長時間の書類仕事で足が浮いているのは、単純に体に悪い。
俺は倉庫から低い足置き台を持ってきて、そっとデスクの下に差し入れた。
「リーニャ様、お足元に――」
ペンの音が、止まった。
執務室が、しんと静まり返る。
リーニャがゆっくりと顔を上げた。
その頬が、じわじわと赤くなっていくのが見えた。怒りとも羞恥ともつかない色だった。
「……何それ」
「あ、いえ、お足が床に」
俺は最後まで言えなかった。
言い終わる前に、頭の中で警報が鳴ったからだ。
第九十七版、第三項。
『一、「かわいい」は禁句。身長に関する話題は死。』
「あ」
くるり。
「待って、これは足の話であって身長の話では――」
――デス:4
◇
石造りの天井。紫の光。
「同じだよなあ……!!」
俺はベッドの上で吠えた。
足が床に届かない話は身長の話だ。当たり前だ。何を考えていたんだ俺は。
だが、同時に。
俺は天井を睨みながら、頭の中で線をつないでいた。
――「かわいい」は禁句。身長の話は死。「逃げません」も死。
全部、バラバラの地雷だと思っていた。
でも、違う。
全部、「子ども扱いされること」と「本気で向き合われること」だ。
あいつは、小さいと言われるのを嫌う。守られるのを嫌う。まっすぐな言葉を向けられると、赤くなって鎌を振る。
三十三人の執事は、たぶん、あいつを「理不尽な化け物」として扱った。
でも実際は違う。
あいつは、なめられるのが死ぬほど嫌な、十五歳くらいの女の子だ。
「……見えてきたぞ」
俺は起き上がった。
「ミルカ! 工具ってあるか!」
「こ、工具!? 朝からなんですか執事様!」
◇
五周目。
朝の関門は流れ作業で突破した。ホコリゼロ、紅茶三種、「そうですね」。もはや職人の域だ。
そして昼前、執務室。
リーニャがデスクに向かおうとして、足を止めた。
椅子が、変わっていた。
背もたれが高く、肘掛けには黒い獣の彫刻。座面はさっきまでより一段高い。俺が倉庫の奥から引っ張り出して、一晩かけて磨き上げた代物だ。
「……何これ」
「はい。魔王軍第三幹部たるリーニャ様に、あの椅子は威厳が足りないと判断いたしました」
俺は深く頭を下げた。
「玉座に近い形状のものをご用意いたしました。お気に召さなければ、すぐに戻します」
嘘は言っていない。座面が高いのは、あくまで威厳の問題だ。断じて身長の話ではない。
長い沈黙。
リーニャは椅子の周りをぐるりと一周した。肘掛けの彫刻を指でなぞる。そして、ぽすんと腰を下ろした。
足が、床に届いた。
「……ふうん」
その横顔が、ほんの少しだけ、得意げだった。
「まあ、悪くないんじゃない」
「恐れ入ります」
昼の関門、突破。
俺は握りしめた拳を、背中に隠した。四回死んで、ようやくだ。四回死んで、ようやく椅子ひとつ。
でも、悪くない。
さっきの、あの得意げな顔。あれを見られただけで、四回分の首は釣りが来る気がした。
……いや、来ないな。首は首だ。四回は多い。
◇
その時だった。
屋敷の外から、地鳴りのような音が響いた。
角笛だ。低く、長く、腹に響く音。
リーニャの手が止まった。ペンが羊皮紙の上に、黒い染みを落とす。
見上げた顔から、さっきまでの得意げな色が、すっと消えていた。
「……嘘でしょ」
「リーニャ様?」
扉が乱暴に開いた。ミルカが転がり込んでくる。顔面蒼白だった。
「り、リーニャ様! 大変です、正門に、正門に!」
「誰」
ミルカは、震える声で言った。
「魔王軍第五幹部――ガイゼル様、ご到着です!」
リーニャが、静かに立ち上がった。
その小さな手が、肘掛けを強く握りしめている。指の関節が、白くなっていた。
俺はその手を見た。
そして、この日初めて、あることに気づいた。
――あいつ、怯えてる。
(第五話につづく)




