第三十五話 規則
「十二年です」
女神は、墓標の列の向こうに立っていた。
月明かりの下で、白いドレスが淡く光っている。
「十二年かけて、第三幹部の席を弱らせました。三十三人を使いました。ヴェルナ・ブラックマンを処分させました」
「……」
「すべて、無駄になりました」
「そりゃどうも」
「皮肉ですか」
「感想だ」
◇
俺は、自分の心臓の音を聞いていた。
うるさかった。
(――落ち着け)
(相手は、あんたを二十三回殺した女じゃない)
(あんたを二十三回、殺させた女だ)
「女神」
「なんでしょう」
「あんた、俺を殺せるか」
◇
金色の瞳が、動かなかった。
長い沈黙があった。
風が、墓標のあいだを抜けていった。
「……なぜ、そう思われますか」
「答えになってない」
「質問の意図を伺っています」
「質問に質問で返すのは、答えられない時だ」
俺は、一歩前に出た。
「三十三人。全員、誰かが殺した。ホコリで、紅茶で、命令書で。あんたが手を下した執事は、一人もいない」
「……」
「先代も、ガイゼルが殺した」
「……」
「あんた、自分では何もできないんだろ」
◇
女神は、答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
俺は、息を吐いた。
長い息だった。膝が笑いそうになるのを、必死で堪えた。
(――当たった)
(一回で、当たった)
「……面白い方ですね」
女神が言った。
「ですが、ひとつ訂正を」
「なんだ」
「わたしは、何もできないのではありません」
彼女は、静かに言った。
「してはならない、のです」
◇
「……規則か」
「はい」
「加護の回収も、規則だと言ったな」
「言いました」
「誰が決めた」
女神は、答えなかった。
代わりに、少しだけ首を傾げた。
「あなたは、なぜ報告書を書くのですか」
「……は?」
「執事に、報告書を書く義務はありません。ですが、あなたは書きます」
「……」
「わたしも、同じです」
◇
俺は、口をつぐんだ。
墓標が三十三個――いや、三十二個並んだ庭で、女神と執事が向かい合っていた。
どちらも、自分で決めたわけではない仕事をしている。
(――同じ、ねえ)
「違うな」
俺は言った。
「どこが違いますか」
「俺は、書く内容を選んでる」
「……」
「事実しか書かない。だが、順番は選ぶ。書かないことも選ぶ」
俺は、女神を見た。
「あんたは、選んだことがあるか」
◇
女神の表情が、初めて、わずかに揺れた。
「――そろそろです」
「は?」
「来ますよ」
◇
背後で、砂利を踏む音がした。
振り返ると、宮本諒が立っていた。
手に、厨房の包丁を持っていた。
顔は、ぐしゃぐしゃに濡れていた。
「……宮本さん」
「すみません」
彼の手は、震えていた。
「すみません。すみません」
◇
「期限は、幹部会まででした」
女神が言った。
「過ぎました。ですから、条件は失効しています」
「……」
「ですが、わたしは寛大です」
彼女は、宮本を見た。
「今なら、まだ間に合います」
「……ほんとに」
「はい」
「ほんとに、帰れるんですか」
◇
俺は、動かなかった。
逃げれば、彼は追う。
叫べば、誰かが来る。リーニャが来る。
(――それが、狙いだ)
(俺が死ぬところを、あいつに見せること)
だから俺は、動かなかった。
代わりに、こう言った。
「宮本さん」
「……はい」
「帳面は、読みましたか」
◇
宮本の肩が、跳ねた。
「……はい」
「最後のページです」
「……はい」
「なんて書いてありましたか」
包丁の先が、震えていた。
「……『あなたがここにいたことは、俺が残しておく』」
「はい」
「『三十五人目、宮本諒。妻がいて、来月子どもが生まれるはずだった』」
彼は、自分の声で泣き出した。
「なんで書くんですか、そんなこと」
◇
「書かないと、消えるからです」
俺は言った。
「三十三人がそうでした。名前も、死因も、何も残らないところでした。余白がなければ、全員なかったことになっていた」
「……」
「宮本さん。あなたは、ここにいます」
「……」
「殺しても、殺さなくても、あなたはここにいたんです」
◇
包丁が、落ちた。
砂利の上で、軽い音を立てた。
宮本は、その場に膝をついた。
「……帰りたいんです」
「はい」
「子どもが」
「はい」
「まだ、名前も決めてないんです」
俺は、彼の前にしゃがんだ。
そして、言った。
「――帰りましょう」
「え」
「方法を探します。私は、そういうのが得意です」
「……根拠は」
「ありません」
「ないんですか!?」
「ですが、二十三回死んで、一度も諦めておりません」
◇
「――無駄です」
女神の声が、庭に落ちた。
「帰還の方法はありません。三十四人、誰も帰っていません」
「そうか」
「わたしが嘘をついたと思いますか」
「思わない」
俺は立ち上がった。
「あんたは嘘をつかない。ただ、知らないことは言えないだけだ」
「……」
「あんた、帰り方を知らないんだろ」
◇
女神は、答えなかった。
三度目の沈黙だった。
◇
その時。
厨房のほうから、小さな足音がした。
「……あの」
ミルカだった。
角を下げて、エプロンを握りしめて、それでも歩いてきた。
女神の前まで。
「ミルカ、下がれ」
「いやです」
彼女は、白いドレスの女を見上げた。
「あの。聞きたいことが、あります」
「なんでしょう」
◇
「わたしを、元に戻せますか」
◇
女神は、しばらくミルカを見ていた。
そして、言った。
「記憶を返すことは、できません」
「……はい」
「時を動かすことも、できません。あなたは、歳を取りません」
「……はい」
「あなたは、失敗作です」
ミルカの角が、ぴくりと動いた。
俺は、前に出ようとした。
出る前に、ミルカが言った。
「――そうですか」
◇
「じゃあ、いいです」
彼女は、そう言った。
「……いい、とは」
「もういいです、っていう意味です」
ミルカは、エプロンから手を離した。
「わたし、名前があります。ミルカです」
「……」
「パンが焼けます。十四人分、一度に焼けます」
「……」
「行くところもあります。北の山を越えるそうです」
彼女は、頭を下げた。
「ですので、もう、いいです」
◇
女神は、長いあいだ動かなかった。
金色の瞳が、ミルカを見ていた。
その視線には、俺が初めて見る色があった。
理解できないものを見ている顔だった。
「……わかりません」
「はい」
「あなたは、十二年を奪われました」
「はい」
「なぜ、怒らないのですか」
ミルカは、少し考えた。
そして、言った。
「怒っても、パンは焼けないので」
◇
月が、雲に隠れた。
女神は、墓標の列を見ていた。
三十二個の石を。
「……三十三個では、ないのですね」
「一つ割りました」
俺は言った。
「生きている者の墓は、いりませんので」
「……」
「女神」
「なんでしょう」
「あの石は、ぜんぶ誰かが四刻かけて彫ったものです」
女神が、こちらを見た。
「石代が銀貨三枚。彫り賃が一枚。ですが、あの庭の石に彫り賃は払われておりません」
「……存じています」
「二代の幹部が、夜中に一人で、音だけを聞いて彫りました。読めない名前もあったそうです」
俺は、墓標の列を見た。
三十二個の、黒い影を。
「三十二個で、百二十八刻でございます」
「……」
「あんたのために、四刻を使う奴はいない」
◇
金色の瞳が、わずかに揺れた。
それは、たぶん、この夜で最初に見せた人間らしい反応だった。
女神は、白いドレスの裾を直した。
そして、背を向けた。
「――三十四人目」
「ああ」
「わたしは、待つことができます」
「……」
「百年でも、三百年でも。均衡が崩れれば、また駒を送ります。あなたたちは、待てません」
足音が、遠ざかっていった。
コツ。
コツ。
コツ。
◇
その音が消えた後。
俺は、その場に座り込んだ。
膝が、完全に笑っていた。
「……ユウマ様」
「ミルカ」
「はい」
「よく言った」
「わたし、失礼でしたか」
「最高だった」
宮本が、鼻をすすった。
「……あの、僕、包丁を落としただけなんですけど」
「十分です」
「何も役に立ってないんですけど」
「落としたことが、役に立ったんです」
◇
そして、背後で声がした。
「――全部、聞いてたわよ」
◇
リーニャが、屋敷の扉のところに立っていた。
いつから、そこにいたのかはわからない。
彼女は、まっすぐ俺を見ていた。
「ユウマ」
「はい」
「あの女、なんて言った」
「待つことができる、と」
「そう」
彼女は、ゆっくりと歩いてきた。
そして、俺の前で立ち止まって、こう言った。
「じゃあ、待たせてやりましょ」
デス:23(加護、返却済み)
(第三十六話につづく)




