第三十六話 海
封鎖の朝は、よく晴れていた。
紫の空が、いつもより薄く見えた。
俺は最後の点検をして、窓を一つずつ閉めていった。大広間。執務室。西棟。
ヴェルナの部屋の本は、そのままにした。
三百二十七冊。四十一冊に、シンヤの書き込みがある。
(――いつか、誰かが読むかもしれない)
そう思って、扉に鍵をかけた。
◇
門の外に、荷馬車が二台。
ミルカが、鍋と麺棒を抱えて右往左往していた。
「窯は持っていけません!」
「当たり前だ」
「でも窯がないとパンが」
「向こうで作る」
「作れるんですか!?」
「作る。俺は書類が得意だが、宮本さんは手先が器用だ」
「僕、窯を作ったことないんですけど」
◇
ガイゼルは、見送りには来なかった。
代わりに、封鎖の書類だけが届いた。
その最後の行に、監察官の署名がある。
そして、余白に一行、乱暴な字で書き足されていた。
『北の山は、東の峠から入れ。西は魔獣が出る』
俺は、その紙を折りたたんで、内ポケットに入れた。
◇
ヨナは、荷馬車に乗らなかった。
「……俺は、残る」
「体が」
「わかってる」
彼は、割れた石の破片を拾い上げていた。
「街に戻る。月に一度、ここに来る」
「封鎖されますよ」
「塀の外からでいい。三年やってた。慣れてる」
彼は、咳をしてから笑った。
「今度は、数えるんじゃねえ。増えねえのを確かめに来るんだ」
「……」
「三十二個のままなら、それでいい。それだけで、俺は十分だ」
◇
俺は、頭を下げた。
「トオルさん」
彼の肩が、跳ねた。
「……やめろ」
「呼ばせてください。一度だけ」
「……」
「ありがとうございました」
ヨナは、答えなかった。
背を向けて、手を振っただけだった。
その手が、震えていた。
◇
荷馬車が動き出した。
俺は、最後に中庭を振り返った。
三十二個の墓標が、朝の光の中に並んでいた。
一人目。誰にも宛てず、俺がここにいたと書いた男。
六人目。一年が最長記録だった男。
八人目。日本の話をしたかった男。
十四人目。ホコリと五回書いた男。
十六人目。シンヤ。かぐや姫を説明できなかった男。
二十二人目。ペンを拾った男。
二十八人目。一緒に逃げようと言った男。
三十三人目。明日には三十三個になる気がする、と書いた男。
(――ならなかったぞ)
(三十四個目は、建たなかった)
◇
北の山は、遠かった。
峠を三つ越えて、十二日かかった。
ミルカは五日目に足を痛めて、宮本が背負った。リーニャは毎晩、枝を拾って素振りをした。回数は減っていた。
十日目の夜、焚き火の前でリーニャが言った。
「ねえ、ユウマ」
「はい」
「わたし、これから何になるの」
◇
俺は、火を見ながら答えた。
「何にでも」
「そういうのじゃなくて」
「では、先にお伺いしますが」
「なに」
「何がしたいですか」
リーニャは、黙った。
長いあいだ、黙っていた。
そして、小さく言った。
「……聞かれたこと、ない」
「はい」
「一度も、ないの」
◇
拾われて、椅子に座らされて、命令書を読んで、村を焼けと言われて。
十五年生きて、誰にも聞かれなかった質問だった。
「じゃあ、ゆっくりお考えください」
「……うん」
「十年でも、二十年でも」
「そんなにかかる?」
「私は、十七年かけて何も見つかりませんでした」
「役に立たないわね、あんた」
「恐れ入ります」
◇
峠を越えると、風の匂いが変わった。
塩の匂いだった。
「――ユウマ」
リーニャが、荷馬車から飛び降りた。
坂を駆け上がって、その先で立ち止まった。
俺も追いついて、そして見た。
◇
海だった。
灰色がかった青が、地平線まで続いていた。
波が白く割れて、また戻って、また割れていた。音が絶え間なく響いていた。
リーニャは、口を開けたまま立っていた。
「……これ」
「海でございます」
「端が、ない」
「はい」
「水が、全部これ?」
「はい」
「全部、塩辛いの?」
「全部です」
◇
彼女は、外套の内側から手紙を取り出した。
三つに折った、古い羊皮紙を。
そして、それを両手で持って、海のほうへ向けた。
何も言わなかった。
言葉は、ひとつもなかった。
ただ、そうやって立っていた。
◇
(――シンヤ)
俺は、心の中で呼んだ。
(あんたが説明できなかったかぐや姫は、竹から生まれる話だ)
(タケってのは、まっすぐ伸びる木で、中が空洞なんだ)
(説明、下手だな。俺も)
(だが、海は連れてきた)
(あんたの主の、娘だけどな)
◇
ミルカが、後ろから駆けてきた。
「うわあああ! なんですかこれ!」
「海だ」
「海!? これが!?」
ミルカは波打ち際まで走って、足を突っ込んで、飛び上がった。
「冷たい!」
そして、次の瞬間。
「――しょっぱいんですよ、これ」
俺は、足を止めた。
「ミルカ」
「はい」
「まだ、舐めてないだろ」
ミルカの動きが、止まった。
彼女は、自分の濡れた足を見下ろした。
それから、ゆっくりと膝をついて、指先を水につけて、舐めた。
「……しょっぱい」
角が、ぴんと立った。
「なんで、わたし、知ってたんですか」
誰も、答えられなかった。
やがてミルカは、濡れた指を握りしめて、笑った。
泣きそうな顔で、笑った。
「……わたし、海を知ってるんです」
宮本が、その隣にしゃがみ込んだ。
「……僕も、知ってます」
彼は、水面を見ていた。
「同じ海ですかね、これ」
「さあ」
「同じだったら、いいですね」
◇
日が傾いてきた。
ミルカと宮本は、流木を集めに行った。今夜はここで野宿らしい。
俺とリーニャは、波打ち際に座っていた。
彼女は、手紙を仕舞い直していた。
「……ユウマ」
「はい」
「前に、変なこと言ったの覚えてる?」
「どれでしょう」
「もう三十四なら、遅くない? って」
◇
俺は、頷いた。
「覚えております」
「……忘れなさいよ」
「執事は、忘れません」
「最悪ね」
リーニャは、膝を抱えた。
「あれね、意味が二つあったの」
「はい」
「攻略度が三十四だって聞いた時、わたし、もうとっくに三十四どころじゃなかったのよ」
波が、寄せて返した。
「遅いのは、あんたのほうじゃないの、って意味」
◇
俺は、しばらく海を見ていた。
そして、言った。
「――四回目でございます」
「え?」
「四回目の朝に、足置き台を持っていきました」
「……」
「足が床に届かないのは体に悪いと思ったからです。あれで一度、死にました」
俺は、彼女を見た。
「あの時にはもう、任務ではありませんでした」
◇
リーニャの目が、大きくなった。
「……四回目?」
「はい」
「一日目の、四回目?」
「はい」
彼女は、両手で顔を覆った。
「……はやい」
「はい」
「はやすぎでしょ」
「申し訳ございません」
「謝ることじゃないでしょ!」
◇
俺は、海に向き直った。
心臓が、うるさかった。
二十三回死んだ時より、うるさかった。
「リーニャ様」
「様、いらないって言ったでしょ」
「では、リーニャ」
彼女の肩が、跳ねた。
「わたし、その呼び方」
「はい」
「初めて呼ばれた」
◇
俺は、深く息を吸った。
そして、言った。
「私は、女神に命じられてここへ来ました」
「知ってる」
「あなたに恋をさせて、無力化しろと」
「知ってるわよ」
「――任務は、失敗しました」
リーニャが、こちらを見た。
俺は、頭を下げなかった。
執事として、ではなく。
「先に、私が恋をしたからです」
◇
波の音だけが、しばらく続いた。
やがて、小さな手が、俺の袖を掴んだ。
強く引っ張られた。
「――ばか」
「はい」
「ばか。ばか。遅い」
「はい」
「三十二回、遅い」
「二十三回でございます」
「うるさい!」
◇
その後のことは、あまり覚えていない。
覚えているのは、塩辛い風と、波の音と、小さな体の温度だけだ。
あとで聞いた話では、流木を抱えたミルカと宮本が、丘の上で三十分ほど固まっていたらしい。
「戻るに戻れませんでした」
「すみません」
「あと、宮本様が泣いてました」
「泣いてません」
「泣いてました」
◇
夜。
焚き火の前で、俺は羊皮紙を開いた。
『リーニャ様 怒らせないための注意事項 第百二十版』
十二年分の記録。三十三人分の余白。
俺は、最後のページに、新しい一行を書いた。
『第百二十一版・最終項
注意事項は、ここで終わる。
もう、怒らせないための工夫はいらない。
あの人は、もう誰も殺さない。
三十三人へ。
あんたたちが書き残したものは、全部読んだ。
全部、役に立った。
三十四人目 佐倉悠真』
◇
ペンを置くと、隣から声がした。
「なに書いてるの」
「引き継ぎでございます」
「誰に」
「……誰にでも」
リーニャは、覗き込もうとして、読めないとわかって諦めた。
そして、焚き火に薪を足しながら言った。
「ねえ、ユウマ」
「はい」
「あの女神、待つって言ってたわよね」
「はい」
「百年でも、三百年でも」
「はい」
彼女は、火を見ながら笑った。
十五歳の、意地の悪い笑い方だった。
「待たせましょ」
「かしこまりました」
◇
波の音が、聞こえていた。
端のない海の上に、星が出ていた。
俺は、自分の手の甲を見た。
何もない、ただの皮膚だった。
やり直しは、もうない。
一回きりの人生が、明日も続く。
(――上等だ)
了
デス:23(加護、返却済み/使用予定なし)




