第三十四話 封鎖
帰りの馬車で、リーニャは一度も窓の外を見なかった。
膝の上で手を組んで、じっと前を見ていた。
「……リーニャ様」
「様、いらない」
「え」
「幹部じゃないもの」
俺は、少し考えて答えた。
「屋敷が封鎖されるまでは、私は執事でございます」
「……あと何日?」
「十日でございます」
「じゃあ、十日だけね」
◇
屋敷に戻ると、門にミルカが立っていた。
前と同じ場所で、前と同じ顔で。
「おかえりなさいませ!」
「ただいま」
「ユウマ様、生きてます!」
「生きてる」
「二回目です!」
「何が」
「帰ってきていただいたのが、二回目です」
俺は、その角を見た。
十二年、誰も帰ってこなかった門で、彼女はそれを数えていた。
◇
屋敷の封鎖は、十日後と決まった。
使用人には退職金が出る。魔王軍の支給だ。行き先のある者は帰り、ない者は第五幹部の屋敷が引き取る。ガイゼルが手配した。
俺は、名簿を一人ずつ確認していった。
十四人のメイド。庭師が二人。厨房番が三人。馬丁が一人。
そして。
(――ミルカだけ、書けない)
◇
名簿には、年齢を書く欄がある。
出身地を書く欄もある。
家族の有無を書く欄もある。
ミルカには、そのどれも書けなかった。
俺は、その晩、厨房へ行った。
彼女は、窯の前でパンをこねていた。
「ミルカ」
「はい」
「行き先の希望を聞いている」
「……はい」
「どこか、あるか」
ミルカは、生地から手を離さなかった。
「……わかりません」
◇
「わたし、この屋敷しか知らないんです」
彼女は、小さく言った。
「外に出たことは、あります。街にも行きました。でも、帰る場所はここでした」
「ああ」
「ここがなくなったら、わたし、どこに帰るんでしょう」
窯の火が、ぱちりと鳴った。
俺は、少し息を吸った。
そして言った。
「一緒に来い」
◇
ミルカの手が、止まった。
「……え」
「俺とあいつは、北の山を越える。あんたも来い」
「で、でも、わたし」
「歳を取らないだろ」
「はい」
「じゃあ、都合がいい」
俺は言った。
「俺より長生きするんだから、あいつの面倒を見てくれ」
◇
ミルカは、粉だらけの手で、顔を覆った。
「……ずるいです」
「そうか」
「そういう言い方、ずるいです」
「そうか」
「行きます」
「頼む」
「行きます。行きますってば」
「聞こえた」
「パン、焼きます」
「毎日だぞ」
「毎日焼きます」
彼女は泣きながら、生地を叩いていた。
その夜のパンは、しょっぱかった。
◇
三日目に、健太を逃がした。
正確には、「護送中の逃亡」という書類を書いた。
「本当にいいのか? あんたの責任になるだろ」
「捕虜の逃亡は、護送隊の責任でございます」
「護送隊って誰だよ」
「第五幹部の部隊でございます」
「ガイゼルさんに擦りつけたのか!?」
「ご本人の了承は得ております」
門の外で、健太は縄を外しながら笑った。
「あの人、いい人だな」
「いい人ではありません」
「え?」
「三年前、あの方は先代を殺しました」
俺は、静かに言った。
「そのうえで、今回は書いてくださいました。それだけです」
健太は、しばらく黙っていた。
そして、頷いた。
「……そうか」
◇
「なあ、ユウマ」
「はい」
「俺、これからどうすればいいと思う」
「勇者を続けられますか」
「無理だろ。捕まって逃げた勇者だぞ」
「では、村へ」
俺は言った。
「ヴェルド村は再建されます。焼失報告は書きましたが、井戸と水車は焼けておりません」
「……書いたのか、そこまで」
「事実でございます」
健太は、口の端を上げた。
「あんた、ほんとに」
「執事でございます」
◇
彼は、街道を歩いていった。
数歩進んで、振り返った。
「ユウマ!」
「はい」
「あの子、大事にしろよ」
「……」
「妹と同い年なんだよ、あの子。ちゃんと十五歳やらせてやれ」
俺は、深く頭を下げた。
顔を上げた時、彼はもう小さくなっていた。
◇
五日目の夜、ヨナが屋敷に来た。
咳は、前より深くなっていた。
「……封鎖されるんだってな」
「はい」
「そうか」
彼は、中庭の墓標を見ていた。
三十三個。
「なあ、執事」
「はい」
「これ、どうするんだ」
◇
俺は、答えを用意していなかった。
屋敷は封鎖される。記録は封印される。庭は、いずれ草に埋もれる。
三十三個の石は、誰にも読まれないまま残る。
「――持っていくわけには、いかないんだよな」
ヨナが言った。
「はい」
「そうだよなあ」
彼は、自分の名前が彫られた石の前にしゃがんだ。
『ト オ ル』
音だけを聞いて彫られた、三文字。
「……三年ぶりだ」
「はい」
「これ、俺の墓なんだよな」
◇
その時、背後で声がした。
「割るわよ」
リーニャだった。
いつのまにか、庭に立っていた。
「え」
「その石。あなたのでしょ」
「……ああ」
「生きてるんだから、いらないわ」
彼女は、鎌を出した。
そして、一振りで、その石を砕いた。
◇
ヨナは、しばらく動かなかった。
砕けた石の破片を見つめて、それから、膝から崩れた。
そして、泣いた。
三年逃げて、名前を捨てて、月に一度塀の外から墓を数えていた男が、自分の墓が割れる音を聞いて泣いていた。
リーニャは、鎌を消した。
そして、ぼそりと言った。
「……彫り直すの、四刻かかるんだからね」
「……はい」
「もう死なないでよ」
◇
残りの三十二個は、そのままにした。
「持っていくべきでしょうか」
「いいえ」
リーニャは首を振った。
「あの人たちは、ここにいたのよ。ここにいたんだから、ここに置いていくの」
「……はい」
「でも」
彼女は、外套の内側から手紙を出した。
三つに折った、ヴェルナの手紙を。
「これは、持っていく」
◇
九日目の夜。
荷物はまとまった。
明日の朝、屋敷が封鎖される。
俺は最後の見回りをして、中庭に出た。
月が出ていた。
そして。
◇
コツ。
コツ。
コツ。
◇
足音が聞こえた。
俺は、振り返った。
墓標の列の向こうに、白いドレスの女が立っていた。
腰まで届く銀色の髪。背中に光の輪。金色の瞳。
夢ではなかった。
俺の足の裏は、中庭の土を踏んでいた。
「――女神」
◇
女神ルミナリアは、微笑まなかった。
「三十四人目」
「……」
「あなたは、わたしの十二年を壊しました」
デス:23(加護、返却済み)
(第三十五話につづく)




