第三十話 九十一パーセントの距離
執事が二人いる屋敷というのは、思っていたより厄介だった。
「ユウマさん。紅茶をお持ちしました」
「宮本さん。それは私の仕事です」
「僕も執事ですので」
「私が先任です」
「では、二人で持っていきましょう」
「カップは一つです」
◇
宮本諒は、優秀だった。
腹が立つほど優秀だった。
床の拭き方が丁寧で、書類の綴じ方が正確で、歩く時に足音がしなかった。三日目には屋敷の間取りを覚え、五日目にはミルカに信頼されていた。
「ユウマ様。宮本様、いい方ですね」
「あいつは俺を殺しに来た男だぞ」
「でも、皿の割れ方が丁寧です」
「割ってるんじゃないか」
◇
そして彼は、毎晩律儀に俺の部屋の扉を叩いた。
「ユウマさん。今日も、殺しませんでした」
「ご報告ありがとうございます」
「明日はわかりません」
「承知しております」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
(――なんだこの生活は)
◇
問題は、別のところにあった。
俺は、リーニャを避けはじめていた。
意識してではない。
朝の紅茶を出して、すぐ下がる。書類を置いて、すぐ下がる。中庭の素振りには、宮本を行かせるようになった。
理由は、はっきりしていた。
攻略度、九十一パーセント。
(――上げてはいけない)
(百になったら、あいつは無力化される)
(無力化された幹部は、処分される)
だから俺は、九のぶんだけ距離を取っていた。
◇
十日目の夜。
執務室に書類を置いて下がろうとしたら、呼び止められた。
「ユウマ」
「はい」
「最近、逃げてるわね」
心臓が跳ねた。
「逃げてはおりません」
「じゃあ、なんで下がるの」
「業務が」
「座りなさい」
俺は座らなかった。
座れなかった。
リーニャは、ペンを置いた。
「……そう」
◇
「わたし、何かした?」
「いいえ」
「じゃあ、なんで」
「申し上げられません」
その言葉は、以前は通った。
彼女が「あんたが嘘つかなかったから」と言って許してくれた言葉だ。
今夜は、通らなかった。
「……ずるいわ、それ」
リーニャは立ち上がった。
そして、俺の横をすり抜けて、扉のところで止まった。
「わたしね、ユウマ」
「はい」
「あんたに嫌われる分には、我慢できるの」
「……」
「三年間、そういうのには慣れてる」
彼女は、こちらを見なかった。
「でも、理由がわからないのは、いや」
◇
扉が閉まった。
俺は、その場に立ち尽くしていた。
(――言えるか)
(あんたに好かれると、あんたが死ぬ)
(そんなことを、言えるか)
◇
翌朝、俺は厨房で宮本と鉢合わせた。
彼は、無言で紅茶を三種類淹れていた。
「……宮本さん。それは」
「ミルカさんに聞きました。リーニャ様は温度にうるさいと」
「今は一種類でいいんです」
「え?」
「七十一度です」
宮本が、手を止めた。
そして、こちらを見た。
「……ユウマさん」
「はい」
「なんで、あなたが避けてるんですか」
◇
俺は、彼に説明した。
攻略度という数字のこと。九十一という値。百になった時に起きること。
宮本は、黙って聞いていた。
そして、こう言った。
「……変ですね」
「変?」
「順番が、変です」
彼は湯を捨てながら言った。
「先代の方は、八十四まで行ったんですよね」
「シンヤという執事です」
「その時点では、先代は無力化されていなかった」
「……はい」
「壊れたのは、その執事が死んだ後ですよね」
◇
俺は、湯気の向こうの宮本を見た。
「三か月かけて壊れた、と聞きました」
「……ええ」
「じゃあ、無力化したのは恋じゃない」
宮本は、静かに言った。
「喪失でしょう」
◇
厨房の窯が、ぱちりと鳴った。
俺は、動けなかった。
頭の中で、数字と出来事が並び替わっていった。
シンヤ、八十四パーセント。ヴェルナは機能していた。砦を九つ落とした幹部のまま、書類を読み、部下に敬語を使っていた。
シンヤが死んだ。
三か月。
名前を呼び続けた。
捕虜を六十人逃がした。
中庭に立って、鎌を振らなかった。
(――そうだ)
(恋をしただけでは、誰も壊れていない)
◇
「宮本さん」
「はい」
「女神は、あなたにこう言いましたね。三十四人目を排除しろと」
「言いました」
「排除しろ、です。殺せ、ではなく」
宮本の眉が動いた。
「……はい。そうです」
「そして『帰る道が開かれる』と」
「はい」
俺は、厨房の壁に手をついた。
(――女神は、俺を殺したいんじゃない)
(あいつの前で、俺を死なせたいんだ)
◇
そう考えれば、全部つながった。
十二年間、女神がやってきたのは「幹部に恋をさせること」ではない。
恋をさせた執事を、幹部の目の前で死なせることだ。
執事は、そのための道具だ。
だから三十人が死んだ。だから加護が配られた。何度も死ねる道具は、都合がいい。
そして俺の加護は、回収された。
(次に死んだら、俺は本当に死ぬ)
(それを、あいつが見る)
◇
「……ユウマさん、顔色が」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょう」
宮本が、紅茶を差し出してきた。
俺は、それを受け取った。
熱かった。
「宮本さん」
「はい」
「あなたを送り込んだ理由が、わかりました」
「え」
「あなたが私を殺せば、リーニャ様の前で執事が死にます。あなたには、その動機まで用意されています」
宮本の手から、湯呑みが落ちた。
床で、割れた。
丁寧な割れ方ではなかった。
◇
その日から、俺は距離を取るのをやめた。
やめた理由は、単純だった。
(避けたって、意味がない)
(数字を九十一で止めても、俺が死ねば同じことが起きる)
(だったら、死なないことだけ考えればいい)
◇
その夜、俺は中庭に出た。
リーニャが、素振りをしていた。
水と布を持って、いつもの墓標の前に立つ。
彼女は俺を見て、それから、ふいと目を逸らした。
「……宮本は」
「厨房で皿を割っております」
「そう」
「本日は、私が参りました」
「……ふうん」
鎌が、止まった。
彼女は俺の前まで歩いてきて、布をひったくった。
「理由、言いなさい」
「申し上げられません」
「またそれ」
「ですが」
俺は、頭を下げた。
「もう、逃げません」
◇
長い時間、彼女は黙っていた。
やがて、汗を拭いた布を俺に押しつけて、こう言った。
「……次に逃げたら、斬るわよ」
「かしこまりました」
「本気だから」
「存じております」
「加護、ないのに?」
「はい」
リーニャは、ぐっと言葉に詰まった。
そして、俺の脛を蹴った。
痛かった。
◇
幹部会まで、あと十四日。
その夜、俺は羊皮紙に一行だけ書き足した。
『第百二十一版・第一項 距離を取っても、意味がない。』
◇
そして、深夜。
扉が叩かれた。
「ユウマさん。起きていますか」
「宮本さん?」
扉を開けると、彼が立っていた。
顔が、真っ青だった。
「……夢を見ました」
「女神ですか」
「はい」
宮本は、震える手で自分の手の甲を見ていた。
「言われました。期限は、幹部会までだと」
デス:23(加護、返却済み)
(第三十一話につづく)




