第二十九話 三十五人目
男は、宮本諒と名乗った。
二十五歳。会社員だったという。
「駅の階段から落ちまして」
「……階段」
「情けない話です。手すりを掴もうとして、掴めなくて」
彼は困ったように笑った。
感じのいい笑い方だった。俺より背が高く、姿勢がよく、燕尾服がよく似合っていた。
三十四人目より、よほど執事らしかった。
「私はトラックでした」
「トラック」
「はい。青信号でした」
「……それは、ひどい」
「お互いに」
◇
「女神には、なんと言われました」
俺は、応接間で向かい合って座っていた。
ミルカが紅茶を運んできて、そのまま扉の陰から様子を窺っている。
「魔王軍幹部を攻略しろ、と」
「同じですね」
「はい。……ただ」
宮本は、カップに口をつけずに言った。
「もう一つ、言われました」
「なんです」
「前任者が裏切った、と」
◇
紅茶の湯気が、まっすぐ上がっていた。
「裏切った」
「はい。任務を放棄して、幹部を逃がそうとしていると」
「事実です」
「即答ですね」
「隠しても仕方がありません」
宮本は、少し驚いた顔をした。
そして、うつむいた。
「……そうですか」
「宮本さん」
「はい」
「もう一つ、言われましたね」
彼の肩が、わずかに動いた。
◇
「なぜ、そう思われるんです」
「あなたが困った顔をしているからです」
俺は言った。
「命令を伝えるだけなら、困る必要がない」
宮本は、しばらく黙っていた。
そして、顔を上げた。
「――三十四人目を排除すれば、元の世界に帰れる」
「……」
「そう言われました」
◇
俺は、その言葉を聞いて、少しのあいだ息ができなかった。
(――帰れる)
そんな話は、一度もされたことがない。
トラックに轢かれて、白い部屋に落とされて、拒否権はないと言われて、二十三回死んで。
帰れるなんて、一度も言われていない。
「……いい条件だ」
俺は、そう言った。
「はい。いい条件です」
宮本も、静かに言った。
「妻がいます。子どもが、来月生まれる予定でした」
◇
応接間が、静かになった。
扉の陰で、ミルカが息を呑む音がした。
「……そうですか」
「はい」
「それは」
俺は、言葉を探した。
見つからなかった。
「――帰りたいですよね」
「帰りたいです」
宮本は、まっすぐ俺を見た。
「ですので、あなたを殺します」
◇
「殺すと言っても」
俺は、努めて平坦に言った。
「私を殺した後、あなたはどうなさるんです」
「え?」
「リーニャ様は、執事を斬ります。ホコリ一粒で斬ります。あなたは何度死んでも朝に戻れますが、朝に戻るたびに、私を殺し直すことになります」
宮本の眉が、動いた。
「……何度も?」
「一度で終わると思いますか」
俺は、羊皮紙の束を机の上に置いた。
『リーニャ様 怒らせないための注意事項 第百二十版』
「これを読んでください」
◇
宮本は、それを開いた。
そして、余白に気づいた。
日本語の文字。三十三人分。
彼の指が、ページをめくるたびに遅くなっていった。
『六人目。今日で一年。最長記録らしい。うれしくない』
『八人目。誰か日本の話をしてくれ。誰でもいい。誰もいない』
『十四人目。ホコリ。ホコリ。ホコリ。ホコリ。ホコリ』
『二十五人目。俺はもう十九回死んだ。加護のおかげで生きている。生きていると言えるのか?』
『二十九人目。二十八人目の墓が建った。俺はこれを読んだ。俺は何もしない』
◇
宮本の手が、止まった。
「……これ」
「三十三人分です」
「全員、死んだんですか」
「三十人が。三人は逃げました」
「……」
「宮本さん。中庭に墓があります。あなたの分も、いずれ建ちます」
彼は、羊皮紙を閉じた。
そして、両手で顔を覆った。
「……ずるいですよ、これ」
「はい」
「読ませるの、ずるい」
「はい」
「読まなきゃ、殺せたのに」
◇
俺は、彼の前に紅茶を押しやった。
「宮本さん。ひとつ、確認させてください」
「……なんでしょう」
「女神は、『帰れる』と言いましたか。それとも、『帰れる可能性があります』と言いましたか」
宮本が、顔を上げた。
その表情が、ゆっくりと変わっていった。
「……」
「思い出してください。正確に」
「……『元の世界に戻る道が、開かれるでしょう』」
俺は、頷いた。
「開かれる。誰にとって、とは言っていない」
◇
「三十四人目」
「はい」
「あなた、性格が悪いですね」
「よく言われます」
嘘だった。
言われたのは二度目だ。
宮本は、うめくように笑った。
そして、カップを持ち上げて、紅茶を一口飲んだ。
「……あ、おいしい」
「六十八度でございます」
「そこまで測るんですか」
「測ります」
「……執事、大変ですね」
「はい。大変です」
◇
その時。
応接間の扉が、開いた。
リーニャが立っていた。
黒い外套。赤い瞳。そして――右手が、すでに上がっていた。
「リーニャ様」
「その男、誰」
「執事でございます」
「執事は足りてるわ」
◇
宮本が、椅子から転げ落ちた。
「うわっ、ちょっ、これが幹部!?」
「はい」
「小っちゃ」
「宮本さん」
「え?」
「それ、いちばん言ってはいけない言葉です」
◇
黒い鎌が、空気を裂いた。
俺は動いた。
考える前に、体が動いていた。
宮本の前に立って、両手を広げていた。
「――ユウマ!」
刃が、止まった。
俺の鼻先で。
リーニャの顔が、真っ白になっていた。
「……あんた」
「申し訳ございません」
「加護がないって、言ったわよね」
「はい」
「言ったわよね!?」
「はい」
◇
リーニャは、鎌を投げ捨てた。
床に落ちた黒い刃が、じゅっと音を立てて消えた。
彼女は俺の胸倉を掴んで、思い切り引っ張った。
「ばか! ばか! なんで前に出るのよ!」
「反射でございます」
「反射で死ぬな!」
「はい」
「返事だけはいいのよね、あんた!」
◇
床に座り込んだまま、宮本がぽかんとしていた。
そして、ぽつりと言った。
「……庇うんですね」
「はい」
「敵ですよ、僕」
「はい」
「なんで」
俺は、少し考えて答えた。
「三十五人目の墓は、掘らせたくないので」
◇
宮本は、長いあいだ黙っていた。
やがて、ゆっくりと立ち上がった。
そして、燕尾服の埃を払って、頭を下げた。
「……宮本諒と申します。本日より、こちらでお世話になります」
「歓迎いたします」
「ただし」
彼は顔を上げた。
その目には、まだ迷いがあった。
「僕は、まだ諦めていません。帰れるものなら、帰りたい」
「当然です」
「あなたを殺す気は、なくなっていません」
「はい」
「……それでも、いいんですか」
俺は、頷いた。
「その気持ちがなくなったら、あなたは帰れなくなりますので」
◇
その夜。
俺は余白の最後に、こう書き足した。
『宮本諒さんへ。
あなたは、俺を殺せば帰れると言われている。
もし俺が死んだら、そのあとで一度だけ疑ってくれ。
女神は嘘をつかない。ただ、本当のことも言わない。
それから、これは余計なお世話だが、書いておく。
三十五人目、宮本諒。妻がいて、来月子どもが生まれるはずだった。
あなたがここにいたことは、俺が残しておく。
三十四人目』
◇
書き終えて、俺はふと思った。
三十三人が繋いだこの余白に、俺はもう何十回も書いている。
ほとんどはミルカ宛てだ。夜中に書いて、朝に返事が来る。あの子の字は相変わらず下手だ。
だが今夜のこれは、少し違う。
自分を殺しに来た相手に、宛てて書いている。
こんな使い方をした奴は、三十三人の中にもいなかったはずだ。
そして、十二年前の一人目が何を書いたかを思い出した。
俺がここにいたことだけ、残す。
宛先も、署名もない一行だった。
(――あんたのは、届いたよ)
(三十三人ぶん、届いた)
「……進歩だな」
幹部会まで、あと二十六日。
デス:23(加護、返却済み)
(第三十話につづく)




