第二十七話 三十四個目の墓
屋敷の門に、ミルカが立っていた。
雨も降っていないのに、門柱の下でずっと待っていたらしい。エプロンが埃で汚れていた。
馬車が止まると、彼女は駆け寄ってきた。
そして、俺の顔を見て、角をぴんと立てて、こう言った。
「燃やしませんでした」
「……ああ」
「一枚も燃やしていません」
「知ってる」
俺は、その場に膝をついた。
「ありがとう、ミルカ」
「え、あの、ユウマ様? なんで膝をついて」
「三十三回、ありがとう」
ミルカは、ぽかんと口を開けていた。
◇
その夜、俺はミルカに全部話した。
厨房で、窯の前で、パンの焼ける匂いのなかで。
女神のこと。三十三人の執事のこと。彼女自身が十二年前からここにいること。歳を取らないこと。記憶を消されたこと。
そして――帳面を三十三回隠したのは、彼女自身だということ。
「……わたしが」
「そうだ」
「覚えていません」
「知ってる」
ミルカは、自分の手を見ていた。
パン生地をこねてきた、小さな手を。
「わたし、何のためにそんなことを」
「わからない」
俺は正直に言った。
「だが、あんたがそれをやってくれたから、俺はここにいる」
「……」
「三十三人分の言葉が残ってた。だから俺は、間違えずに済んだ」
ミルカの目から、涙が落ちた。
角が、力なく下がった。
「わたし、ちゃんと、いたんですね」
「いたよ」
「ここに、ちゃんといたんですね」
◇
翌日から、俺は報告書を書いた。
三日かかった。
『ヴェルド村進攻 戦果報告』
焼失家屋、三十七棟。倒壊、十二棟。教会、全焼。
捕虜四百名、うち輸送中の損耗ゼロ。
そして――勇者一名、捕獲。
事実だけを、順番を選んで並べた。嘘は一行も書かなかった。
書かなかったことは、たくさんあった。
◇
ガイゼルは、それを読んで鼻を鳴らした。
「……上出来だ」
「恐れ入ります」
「教会が全焼したのに、住民の死者がゼロなのは不自然じゃねえか」
「教会は無人でした。礼拝の時間ではなかったので」
「へえ」
「事実でございます」
ガイゼルは、羊皮紙を丸めて筒に入れた。
「執事」
「はい」
「お前、いい性格してるよ」
「よく言われます」
嘘だった。
言われたのは、これが初めてだった。
◇
その夜、俺は西棟の空き部屋に三人を集めた。
ガイゼル。ヨナ。そして縄を解かれた健太。
「なんだこの面子」
健太が言った。
「魔王軍の幹部と、逃亡執事と、捕虜の勇者」
「あと執事だ」
「地獄の会合かよ」
◇
俺は、羊皮紙を広げた。
「女神は、こう言いました」
三人が、身を乗り出した。
「弱くなった幹部が評価されれば、次の戦場に出される」
「……ああ」
ガイゼルが唸った。
「今回の戦果で、あの子の評価は上がる。次はもっとでかい作戦を任される」
「そして、また手が止まります」
「止まるな」
「その時は」
「俺じゃない誰かが、紙を読む」
◇
俺は、羊皮紙に一本の線を引いた。
「ですので、こうします」
「なんだ」
「リーニャ様を、書類の上で殺します」
部屋が、静まった。
ヨナが咳をした。健太が「え?」と言った。
ガイゼルだけが、動かなかった。
「……続けろ」
「次の作戦で、リーニャ様は戦死したことにします。遺体は敵中に残置。回収不能。先代と同じ形式です」
「……」
「三年前、ヴェルナ様は中庭で殺され、戦死と記録されました。あの記録が通ったなら、逆も通ります」
「逆」
「生きている者を、死んだことにする」
◇
ヨナが、乾いた笑いを漏らした。
「……墓か」
「はい」
「中庭に、三十四個目が建つのか」
「建てます」
俺は言った。
「リーニャ・ブラックマン、と彫って」
「……」
「魔王軍は追いません。死んだ者を追う軍はありません」
健太が手を挙げた。
「じゃあ本人はどこに行くんだ」
「人間国です」
「は!?」
「勇者が、匿ってくださるとありがたいのですが」
「俺!?」
◇
「無理か」
「無理っていうか……」
健太は頭を掻きむしった。
「いや、無理じゃない。無理じゃないけど。魔王軍幹部だぞ? 村焼いた本人だぞ?」
「はい」
「……村人、生きてるしなあ」
彼はしばらく唸って、それから言った。
「あの子、村人を火から出したよな」
「はい」
「見てたやつが四百人いる」
「はい」
「……なんとかする」
◇
ガイゼルが、腕を組んだ。
「戦死報告は、監察官の署名がいる」
「はい」
「俺が書けってことだな」
「はい」
「断ったら」
「断られたら、別の方法を考えます」
ガイゼルは、しばらく天井を見ていた。
そして、言った。
「三年前な」
「はい」
「俺は、一度だけ考えたんだよ」
灰色の顔が、うつむいた。
「あの人を、戦死ってことにして逃がせねえか、ってな」
「……」
「考えて、やめた。怖かったからだ」
彼は顔を上げた。
「――書く」
◇
計画は、そこまで固まった。
あとは、一つだけだった。
いちばん大きな、一つだけ。
◇
俺は、執務室の扉を叩いた。
「リーニャ様。よろしいでしょうか」
「入りなさい」
彼女は、いつもの椅子に座っていた。
木彫りの人形が、机の隅に置いてあった。
俺は、計画をすべて話した。
書類上の死。三十四個目の墓。人間国への逃亡。ヴェルナの手紙にあった、北の山。
リーニャは、最後まで黙って聞いていた。
そして、こう言った。
「――いやよ」
◇
「……リーニャ様」
「いやだって言ってるの」
彼女は立ち上がった。
「聞くけど、ユウマ」
「はい」
「わたしがいなくなったら、この椅子は空くわよね」
「……はい」
「空いた椅子には、誰が座るの?」
俺は、答えられなかった。
「魔王軍は第三幹部を置くわ。必ず置く。そして女神は、また執事を送るのよ」
◇
リーニャは、机を回り込んで、俺の前に立った。
見上げる形で、まっすぐに。
「三年前、ヴェルナがいなくなった。わたしが座った」
「はい」
「わたしがいなくなったら、次は誰?」
「……」
「十二歳の誰かかもしれないわよ」
俺は、拳を握った。
彼女の言う通りだった。
逃げれば、それで終わる。俺とあいつだけは終わる。
だが、椅子は残る。
三十四個の墓がある屋敷も、余白のある帳面も、全部残る。
そして三十五人目が来る。
◇
「じゃあ、どうするんですか」
俺の声は、たぶん情けなかった。
「このままでは、あなたが死にます」
「知ってるわ」
「次の戦場で、手が止まります」
「止まるでしょうね」
「では――」
「だから、壊すのよ」
◇
リーニャは、あの背の高い椅子を指差した。
俺が磨いて、彼女に贈った椅子を。
「この椅子を壊すの」
「……壊す」
「わたしが逃げても、死んでも、椅子があるかぎり同じことが続くわ」
赤い瞳に、迷いがなかった。
「魔王軍第三幹部の席を、なくす」
「……できるんですか、そんなこと」
「わからない」
彼女は、あっさり言った。
「でも、書類ならあんたの領分でしょ」
◇
俺は、その言葉に一瞬固まって、それから笑ってしまった。
笑ったのは久しぶりだった。
「――かしこまりました」
「笑うところじゃないわよ」
「申し訳ございません」
「……ばか」
リーニャは、椅子に座り直した。
そして、机の上の木彫りの人形を指で撫でながら、小さく言った。
「ユウマ」
「はい」
「あんた、加護がないのよね」
「はい」
「死んだら、終わりよね」
「はい」
彼女は顔を上げなかった。
「じゃあ、絶対に死なないで」
デス:23(加護、返却済み)
(第二十八話につづく)




