第二十六話 返却
帰りの馬車で、リーニャはよく眠った。
三日ぶりに眠ったのだと思う。
俺は毛布をかけ直して、窓の外を見ていた。空の色が、紫に戻っていく。
荷馬車の列の後ろでは、縄を打たれた健太が兵と喋っていた。言葉は通じていないはずだが、なぜか通じていた。
「あいつ、どうやって会話してるんだ」
ヨナが向かいの席で咳をした。
「馬鹿は、言葉がいらねえんだよ」
「ひどい言い方だな」
「褒めてる」
◇
国境の宿に泊まった夜。
俺は、久しぶりに白い部屋の夢を見た。
コツ。
コツ。
コツ。
◇
女神ルミナリアは、微笑んでいなかった。
初めて見る顔だった。
美しいことに変わりはない。だが、その美しさから温度が抜けていた。彫像を見ているようだった。
「――お久しぶりです、三十四人目」
「ああ」
「報告を」
指が鳴り、光の板が現れた。
『攻略度:91%』
◇
俺は、その数字を見た。
見て、少しだけ笑った。
「……九十一か」
「一日で、五十七上がりました」
「頑張ったんだ」
「歴代最高です」
「知ってる」
俺は女神を見た。
「八十四を超えたからな」
女神の表情は、動かなかった。
「シンヤという名前をご存じでしたか」
「本人が書き残してた。あんたが隠してた数字も」
「そうですか」
「なあ」
俺は一歩、前に出た。
「なんで隠した」
◇
女神は、答えなかった。
代わりに、光の板を消した。
「三十四人目。あなたに伝えることがあります」
「質問に答えろ」
「本日の作戦は、失敗しました」
俺は、口をつぐんだ。
健太が聞いた言葉だ。
「勇者は幹部を討ちませんでした。幹部は勇者を殺しませんでした。村は焼けましたが、住民は生きています」
「……ああ」
「これは、わたしの想定した結果ではありません」
◇
「待て」
俺は、そこで引っかかった。
「あんた、勇者に何て言った」
「魔王軍幹部を討ちなさい、と」
「俺には、幹部に恋をさせろと言った」
「はい」
「両方あんたが送ったのか」
女神は、否定しなかった。
白い空間が、しんとしていた。
「……なんでだ」
俺の声が、掠れた。
「幹部を無力化させたいなら、勇者はいらないだろ。勇者に討たせたいなら、執事はいらない」
「はい」
「両方送る理由が、どこにある」
◇
女神は、初めて、少しだけ首を傾げた。
「あなたは、何のためにこの世界があると思いますか」
「は?」
「魔族と人間が、三百年戦い続けています。膠着しています」
「……」
「どちらかが勝てば、終わってしまうでしょう」
背筋が、冷えていった。
「勇者が強くなりすぎれば、魔王軍幹部を強化します。幹部が強くなりすぎれば、勇者を送ります」
「……あんた」
「均衡です。わたしの仕事は、それだけです」
◇
「じゃあ、三十三人は」
俺は、拳を握っていた。
「あの三十三人は、なんだったんだ」
「調整です」
「調整」
「第三幹部は、代々優秀すぎました。ヴェルナ・ブラックマンは、三年で人間国の砦を九つ落としています。放置すれば、戦争が終わってしまう」
女神の声には、感情がなかった。
「ですから、執事を送りました」
「……」
「彼女は、シンヤという執事を得て、弱くなりました。完璧な調整でした」
◇
俺は、そこで理解した。
理解して、吐き気がした。
「――あんた、成功してたんだな」
「はい」
「シンヤの八十四パーセントは、失敗じゃない」
「成功です」
「そのあと先代が処分されたのも」
「想定通りです」
女神は、静かに言った。
「第三幹部が一人減れば、均衡は保たれます」
◇
「じゃあ、なんでシンヤの数字を隠した」
「あなたが同じ道を辿るためです」
「……」
「『歴代最高は四パーセント』と言えば、あなたは自分を特別だと思う。特別だと思えば、走ります。三十三人とも、そうでした」
俺は、白い床を見ていた。
「……ミルカは」
「はい?」
「ミルカは何なんだ」
◇
女神は、そこで初めて、ほんのわずかに目を細めた。
「あの子は、失敗作です」
「……なんだと」
「記憶を消し、時を止めました。屋敷に置いて、記録係にするつもりでした。執事が何人死んだかを数える者が必要でしたので」
「……」
「ですが、あの子は数えるだけでは足りなくなった」
女神の声に、初めて何かが混じった。
苛立ちに、近いものだった。
「あの子は、書きました」
◇
余白。
三十三人分の日本語。
(――違う)
(書いたのは執事たちだ)
(だが、それを残したのは)
俺は、顔を上げた。
「……あの帳面、消えなかったのは」
「三十三回、燃やす機会がありました」
女神は言った。
「あの子は、三十三回とも隠しました。理由も覚えていないまま」
◇
俺は、しばらく声が出なかった。
十二年。歳を取らないまま、パンを焼きながら。
自分が何を守っているのかもわからないまま、あの子は帳面を隠し続けた。
そのおかげで、俺はシンヤの八十四パーセントを知った。
そのおかげで、ここに立っている。
「――ありがとう、って言っといてくれよ」
「わたしは伝言をしません」
「だろうな」
◇
女神が、一歩近づいた。
「三十四人目。本題です」
「ああ」
「加護を返却していただきます」
来た、と思った。
「二十三回。よく使いました。歴代二位の記録です」
「一位は」
「二十五回。二十五人目です」
「そいつは」
「二十六回目に、戻りませんでした」
女神は、俺の手の甲に指を向けた。
「あなたの分は、もう残っていません。残量ゼロの加護は、回収するのが規則です」
「規則ね」
「はい」
「あんた、規則を守る側だったのか」
女神は、答えなかった。
◇
指先から、細い光が伸びた。
手の甲が、熱くなった。
痛みはなかった。ただ、何かが抜けていく感覚があった。
長いあいだ、そこにあったものが、なくなっていく感覚。
「……なあ」
「はい」
「ひとつだけ教えろ」
俺は、抜けていく光を見ながら言った。
「返却したら、俺はどうなる」
「普通の者になります」
「死んだら」
「死にます」
「そうか」
◇
光が、消えた。
手の甲は、何もない皮膚に戻っていた。
「――では」
女神は背を向けた。
「あなたの任務は、これで終了です」
「終了?」
「攻略度九十一。均衡は、じきに回復します」
その言葉の意味を、俺は一拍遅れて理解した。
「待て」
「はい?」
「回復って、なんだ」
女神は、振り返らなかった。
「第三幹部は、勇者を捕らえたと報告しました。これは戦果です。上は評価するでしょう」
「……」
「ですが、弱くなった幹部が評価されれば、次の戦場に出されます」
白い空間が、遠のきはじめていた。
「そして次の戦場で、彼女の手はまた止まります」
「おい!」
「その時、彼女を殺すのは魔王軍です。わたしは何もしません」
女神の声が、遠かった。
「わたしは、一度も嘘をついていません」
◇
目が覚めた。
宿の天井。木の梁。窓の外は、まだ暗い。
俺は起き上がって、自分の手の甲を見た。
何もなかった。
淡い光も、消えかけた線も、何も。
ただの、十七歳の手だった。
「……上等だ」
俺は毛布を跳ねのけた。
隣の部屋から、健太のいびきが聞こえていた。廊下の向こうで、ヨナが咳をしていた。
そして、リーニャは眠っている。
(――やり直しは、もうない)
(だから、一回で当てる)
六の月十四日、夜明け前。
デス:23(加護、返却済み)
(第二十七話につづく)




