第二十話 六の月十三日
馬車の中で、リーニャはほとんど喋らなかった。
窓の外を見て、時々目を閉じて、また窓の外を見ていた。
酔ったとも言わなかった。
俺は水筒の位置を三回変えて、毛布を二回かけ直して、それから何もすることがなくなった。
一日目の夕方、彼女がぽつりと言った。
「ユウマ」
「はい」
「海って、見たことある?」
心臓が、止まりかけた。
「……ございます」
「どんなの」
「大きいです。端が見えません。水が全部、塩辛いです」
「塩辛いの? 全部?」
「全部です」
「変なの」
彼女は窓の外を見た。国境の丘が、夕日で赤くなっていた。
「……そう」
それきり、何も言わなかった。
俺も、何も言わなかった。
(――読んだんだな)
(いつか行きましょう、って言った男のことを)
◇
六の月十三日。
夜明け前に、丘の上に部隊が並んだ。
三百。魔族の兵が三百。天幕が畳まれ、松明が消され、灰色の空の下で息だけが白く上がっていた。
リーニャは、幹部の正装だった。
黒い外套。あの背丈に対して大きすぎる肩章。そして、手には何も持っていない。
鎌は、必要な時にしか出さない。
「配置」
彼女の声は、平坦だった。
「東の街道、両側に百ずつ。通り道は開けたままにしなさい。南に百。北は待機」
「村への合図は」
「わたしが出す」
俺は彼女の後ろに、荷物持ちとして立っていた。
執事に軍務はない。武器も持っていない。ここにいる意味は、何ひとつなかった。
それでも彼女は、俺を連れてきた。
◇
ガイゼルは、少し離れた岩の上に座っていた。
酒は持っていなかった。
三メートルの巨体が、腕を組んで、丘の下を見下ろしている。
その目は、村を見ていなかった。
リーニャを見ていた。
(――見張ってやがる)
俺は、内ポケットに手を当てた。
手紙はもうない。渡してしまった。
代わりにそこにあるのは、ただの布切れだ。三十日ほど前に、村の宿の女将から買った頭巾。
あの日、これを被ったあいつは、麦わらの女の子に「大人だ」と言われた。
今日は要らない。今日のあいつは、隠す必要のない正装で丘の上に立っている。
(要らないほうが、いいに決まってるのにな)
◇
夜が明けた。
麦畑の向こうで、鶏が鳴いた。
水車が回りはじめた。
煙突から、煙が上がりはじめた。四百人ぶんの朝が、いつも通りに始まっていた。
リーニャは、丘の上でそれを見ていた。
長いあいだ、見ていた。
そして、右手を上げた。
「――開始」
◇
魔族の兵が、丘を下った。
叫び声が上がった。悲鳴が広場を走った。鐘が鳴った。
キーン、コーン、キーン、コーン。
(――ミルカ)
(あの子が夢で聞いてた音だ)
村人が家から飛び出してくる。子どもを抱えた母親。鍬を持った男。腰の曲がったじいさん。
彼らは東へ走った。
そこだけが、開いていたからだ。
「予定通りね」
リーニャは、丘の上から見下ろしていた。
「東の街道、二百で追い立てて、街道の先で止める。武装は取り上げる。殺すな」
「はっ」
伝令が走った。
俺は、その光景を見ていた。
四百人が、囲いの中を走っていく。生きたまま、外へ。
(――成立してる)
(あいつの案が、成立してる)
胸の奥で、何かが熱くなった。
これは虐殺だ。村は焼かれる。家も畑も、水車も、麦の穂も全部燃える。
それでも。
四百人が、生きている。
◇
「――甘えな」
背後から、低い声がした。
ガイゼルが岩から降りていた。
「リーニャちゃん。街道の先で止めるって言ったな」
「言ったわ」
「止めた後は?」
「西部戦線へ輸送」
「三日かかるぞ。四百人だ。飯はどうする」
「計算済みよ。執事が出した数字がある」
俺は、壁のように黙っていた。
「ふうん」
ガイゼルは、村のほうへ目をやった。
そして、こう言った。
「じゃあ、なんで逃げ足の速い若い男から順に逃げてるんだ?」
◇
俺は、丘の下を見た。
見て、心臓が凍った。
東の街道を走っているのは、老人と、女と、子どもだった。
若い男が、いなかった。
「……あら」
リーニャの声が、わずかに揺れた。
「畑に出ているんじゃないの」
「夜明け前だぞ」
ガイゼルが笑った。
「残ってんだよ。村に」
◇
その時。
村の中央で、光った。
朝日ではなかった。
鋼の光だった。
麦畑の畦から、納屋の陰から、水車小屋の裏から、次々と人影が立ち上がった。
若い男たち。三十人ほど。
手に持っているのは鍬ではなかった。
槍だった。
「――伏兵ぃ!?」
魔族の兵が叫んだ。
三百の軍勢に、三十人が槍を構えていた。勝てるわけがない。何一つ通用するはずがない。
それでも彼らは、東の街道に背を向けて立っていた。
逃げる家族を、背中に庇って。
◇
俺は、丘の上で息を止めた。
(――違う)
(あれは伏兵じゃない)
戦術でも作戦でもない。あそこにいるのは、ただの村人だ。
昨日まで麦を刈っていた男たちが、槍を持って、家族を後ろに逃がして、死ぬために立っている。
「リーニャちゃん」
ガイゼルの声が、ぬるりと響いた。
「どうする?」
「……」
「あの三十人、放っておいたら街道を塞がれるぞ。輸送計画が崩れる。お前の言った通りに動かすなら――」
灰色の顔が、ゆっくりとリーニャを見下ろした。
「先に潰すしかねえよなあ?」
◇
リーニャは、動かなかった。
丘の上で、朝の風に外套をはためかせて、村を見下ろしていた。
その手が、上がらなかった。
一秒。二秒。三秒。
(――やめろ)
(上げろ、リーニャ)
(今、手が止まったら)
俺は、ガイゼルを見た。
灰色の巨体は、笑っていなかった。
腰に手をやって、そこに提げた筒から、羊皮紙を取り出しかけていた。
巻いた命令書だった。
三年前、この男が中庭で読み上げたものと、たぶん同じ形の。
「――リーニャ様」
俺は、一歩前に出た。
言うつもりのなかった言葉を、言うつもりだった。
だが、その必要はなかった。
◇
村の広場に、もう一人、立ち上がった影があった。
長身の若い男。
旅装ではなく、革の胸当てを着けていた。
背中から、剣を抜いた。
その瞬間、三十人の村人が一斉に声を上げた。
「勇者様だ!」
「勇者様が来てくださった!」
丘の上まで、その声は届いた。
魔族の兵の隊列が、ざわりと揺れた。
ガイゼルの手が、命令書から離れた。
「……はっ」
灰色の男が、初めて楽しそうな顔をした。
「勇者かよ。上等じゃねえか」
◇
リーニャの手が、動いた。
くるり、と手首が一回転する。
黒い鎌が、朝の光の中に現れた。
「――ユウマ」
「はい」
彼女は、こちらを見なかった。
「下がってなさい」
「リーニャ様」
「あんたは、死んじゃだめ」
俺は、その背中を見た。
小さな背中だった。俺より頭ひとつ小さい、十五歳の背中だった。
それが、丘を駆け下りていった。
◇
そして俺は、丘の上で見た。
村の広場で、勇者と呼ばれた男が剣を構えるのを。
その顔が、一瞬こちらを向くのを。
三十日ほど前、村を出る時にすれ違った、あの男だった。
そして俺は、その距離で、はっきりと聞いた。
男が、剣を構えながら、小さく吐き捨てた言葉を。
「――マジかよ」
◇
日本語だった。
六の月十三日。
デス:23(残り、なし)
(第二十一話につづく)




