第二十一話 同郷
俺は、丘を駆け下りた。
「下がってなさい」と言われた。
守るつもりは、最初からなかった。
◇
村の広場は、すでに戦場になっていた。
魔族の兵が三十人ほど、槍を構えた村人たちと睨み合っている。
その中央で、二つの影が動いていた。
黒い鎌と、銀の剣。
速い。
リーニャの鎌が横薙ぎに走る。勇者が跳ぶ。着地と同時に踏み込む。剣が突き出される。リーニャが柄で受け、体ごと回して弾く。
俺には、追うのが精一杯だった。
だが、わかることが一つあった。
(――互角だ)
三年間、毎晩あの中庭で振り続けた鎌が、勇者と呼ばれる男と互角に打ち合っている。
四十七回。五十回。六十回。
血の滲んだ手のひらが、今、そこにあった。
◇
「くっそ、なんだこいつ! 聞いてた話と違うぞ!」
勇者が叫んだ。
日本語だった。
「魔王軍幹部って、もっとこう、でかい化け物じゃないのかよ!」
リーニャには、当然通じていない。
彼女は聞き取れない言葉を吐く敵を、ただ斬ろうとしていた。
俺は、広場の端に立って、その光景を見ていた。
(……あいつ、独り言が多いな)
(俺と同じだ)
言葉が通じない世界で、日本語は独り言になる。
三十四人目の執事も、十六人目のシンヤも、たぶん同じだった。
俺は、息を吸った。
そして、叫んだ。
「――その子は、化け物じゃない!」
◇
勇者の動きが、止まった。
完全に、止まった。
剣を振りかぶった姿勢のまま、こちらを見た。
「……は?」
その顔から、血の気が引いていくのが、離れていてもわかった。
「日本語……?」
「佐倉悠真、十七歳! トラックに轢かれた! あんたもだろ!」
「――うっそだろ!?」
勇者が絶叫した。
「なんで!? なんで魔王軍側にいるんだよ!?」
「話せば長い!」
「今そっちの女に殺されかけてるんだけど!?」
「知ってる!」
◇
そして、その瞬間。
リーニャの鎌が、勇者の首筋の手前で止まった。
止められる状況ではなかった。
勇者は完全に隙を晒していた。剣は振りかぶったまま、視線は俺のほうを向いていた。
一撃で終わっていたはずだ。
黒い刃は、その首から指三本ぶんのところで、静止していた。
◇
広場が、静まり返った。
魔族の兵も、村人も、誰も動かなかった。
リーニャは、鎌を止めたまま、俺を見ていた。
赤い瞳が、大きく見開かれていた。
「……ユウマ」
「はい」
「あんた、今、なんて言ったの」
「……」
「その言葉、何? わたし、聞いたことがある」
俺は、答えられなかった。
「シンヤが、それを喋ってた」
◇
十二歳の彼女は、聞いていたのだ。
厨房から菓子を盗んでくる執事が、時々口にしていた、意味のわからない言葉を。
そして三年後、同じ音を、自分の執事が叫んでいる。
「あんた、誰なの」
「リーニャ様」
「誰なのよ」
その声が、震えていた。
俺は、口を開いた。
村で聞く、と彼女は言った。
村に着いたら、全部話すつもりだった。
だから――
◇
「そこまでだ」
低い声が、広場に落ちた。
丘の上から、灰色の巨体が降りてきていた。
一歩ごとに、地面が鳴った。
魔族の兵が、道を空けた。
ガイゼルは、リーニャの三歩手前で止まった。
そして、腰の筒から羊皮紙を抜いた。
巻いたそれを、ゆっくりと開いた。
「――リーニャ・ブラックマン」
「……」
「手が、止まったな」
◇
「止まってないわ」
リーニャの声は、平坦だった。
見事なほど、平坦だった。
「敵の油断を誘っただけよ」
「そうか」
「今から斬るところだったの」
「そうか」
ガイゼルは、羊皮紙を持ったまま頷いた。
「じゃあ、斬れ」
「……」
「今、斬れ」
◇
勇者は、まだ剣を構え直していなかった。
隙だらけのままだった。
こちらの言葉が理解できず、状況が読めず、俺のほうを見て「おい、どうなってんだ」という顔をしていた。
リーニャの鎌は、その首から指三本のところにあった。
一秒。
二秒。
三秒。
動かなかった。
◇
ガイゼルは、羊皮紙を目の高さに掲げた。
そして、読み上げた。
「魔王軍統括本部命令。第三幹部リーニャ・ブラックマンは――」
(――同じだ)
俺の頭の中で、ヨナの声が鳴っていた。
あの男が、命令書を読み上げてた。『第三幹部ヴェルナ・ブラックマンは、職務遂行不能と認められる』って。
あの人は、一度も鎌を振らなかった。
(三年前と、同じことをやってる)
(同じ男が、同じ紙を読んでる)
違うのは、場所だけだ。
三年前は、誰も見ていない真夜中の中庭だった。
今は、三百の兵と、村人と、勇者が見ている。
(――手続きだ)
誰も見ていない庭でなら、あの男は紙を読み上げるだけでいい。
だが、ここでは違う。
三百人の前で幹部を処分するなら、手順が正しくなければならない。
(そこしかない)
◇
俺は、動いた。
考えていなかった。
考える時間もなかった。
気がついたら、俺はリーニャとガイゼルのあいだに立っていた。
「――どけ、執事」
「恐れながら」
声が、震えていなかった。
自分でも驚いた。
「その命令書には、不備がございます」
◇
ガイゼルの目が、細くなった。
「不備だと」
「はい」
「言ってみろ」
「まだ、作戦が終わっておりません」
俺は、広場を指した。
「東の街道。住民およそ三百七十名が、現在も移動中でございます。捕縛完了の報告は、まだ上がっておりません」
「……」
「本作戦の目的は、村の破壊と労働力の確保。そのどちらも、現時点で完了しておりません」
俺は顔を上げて、三メートルの巨体を見上げた。
「作戦の途中で指揮官を交代させれば、混乱が生じます。その責は、監察官殿が負われますか」
◇
広場が、しん、と静まった。
ガイゼルは、しばらく俺を見下ろしていた。
そして、羊皮紙を巻いた。
「……ちっ」
「恐れ入ります」
「執事」
「はい」
灰色の顔が、すぐ目の前まで下りてきた。
酒の匂いはしなかった。
「お前、書類で命令が止められると思ってるだろ」
「……」
「今日は止まった。それだけだ」
彼は羊皮紙を筒に戻した。
「明日は止まらねえ。明後日も止まらねえ。紙で防げるのは、一回きりだ」
そして、背を向けた。
「次はねえぞ、執事」
◇
俺は、その場に立ち尽くしていた。
膝が、今になって笑いはじめていた。
(――一回きり)
ガイゼルの言う通りだった。
書類の不備を突けたのは、捕縛完了の報告がまだ上がっていなかったからだ。報告が上がれば、その手は二度と使えない。
(あと何時間だ)
(三百七十人が街道の先に着いたら、終わる)
作戦が完了した瞬間、あの男は羊皮紙をもう一度開く。
そして今度は、止める理屈がない。
背後で、足音がした。
「ユウマ」
振り返ると、リーニャが立っていた。
鎌は、消えていた。
勇者は、村人たちに引きずられるように後退していく。誰も追わなかった。
彼女は、俺を見上げていた。
外套の裾が、朝の風に鳴っていた。
「……あんた、今、わたしを庇ったわね」
「いいえ」
「庇ったでしょ」
「書類の不備を指摘しただけでございます」
リーニャは、しばらく俺を睨んでいた。
そして。
「……ばか」
小さく、そう言った。
その顔を、俺は正面から見てしまった。
赤い瞳が、濡れていた。
三年間、一度も泣かなかった目だった。
六の月十三日。作戦は、まだ終わっていない。
デス:23(残り、なし)
(第二十二話につづく)




