第十九話 リーニャへ
六の月に入ると、屋敷は軍の匂いがしはじめた。
中庭に天幕が張られ、荷馬車が並び、兵が出入りするようになった。ガイゼルの部下たちだ。
墓標の列は、天幕の陰に隠れて見えなくなった。
俺はそれが、少しだけ気に入らなかった。
◇
リーニャは、よく働いた。
補給計画、行軍順序、捕虜輸送の段取り。書類の山を、彼女は一つずつ片づけていった。
そして、夜になると中庭に出た。
三日に一度だったはずの素振りが、毎晩になっていた。
俺は水と布を持って、天幕の隙間からその音を聞いていた。
四十七回。五十回。六十回。
数が増えていた。
(――眠れないのか)
三日に一度だと、あいつは言った。眠れない日だけだと。
それが毎晩になったということは、そういうことだ。
◇
七十日目。
出発は明日の朝と決まった。
ヴェルド村まで馬車で二日。六の月十三日の朝に着く。
夕食の席で、ガイゼルが酒を飲みながら言った。
「リーニャちゃん。当日の手順、もう一回言ってみろ」
「東から囲む。街道を開けて住民を誘導。捕らえて、村を焼く」
「よし」
ガイゼルは杯を置いた。
「手が止まったら、俺が指揮を取る。忘れんなよ」
「忘れてないわ」
「そうか」
灰色の巨体は、それ以上何も言わなかった。
俺は壁際で、その男の横顔を見ていた。
三年前、この屋敷の中庭で命令書を読み上げた男の横顔を。
◇
その夜。
俺は自室で、内ポケットの手紙を取り出した。
『リーニャへ』
三年間、誰にも読まれなかった文字。
(今夜だ)
俺は、女神のことも、シンヤのことも、中庭のことも、全部話すつもりだった。
三年間、誰もあの子に本当のことを言わなかった。
それが一番の罪だと思う。
二十八人目が書いた言葉を、俺は暗記していた。
◇
執務室の扉を叩いた。
「リーニャ様。よろしいでしょうか」
「入りなさい」
彼女は机に向かっていた。もう書類は片づいているはずなのに、まだペンを持っていた。
書くことがないのに、書いているのだ。
「どうしたの」
「お話が」
「明日、早いわよ」
「存じております」
俺は、机の前に立った。
そして、内ポケットに手を入れた。
「――女神が、いるんです」
リーニャのペンが、止まった。
「……なに?」
「私は、この世界の人間ではありません。別の世界から、女神という存在に送り込まれました」
「ユウマ」
「私の前に、三十三人の執事がおりました。全員、同じ世界から来た人間です」
「ユウマ」
「そして私は、リーニャ様を――」
そこまでだった。
◇
右手が、上がっていた。
赤い瞳は、怒っていなかった。
怯えていた。
「やめて」
「リーニャ様」
「やめてって言ってるでしょ!」
――デス:23
◇
暗かった。
前より、ずっと長く暗かった。
(――戻れ)
(戻れ、戻れ、戻れ)
指先が、なかった。
輪郭がなかった。
女神の声すら、しなかった。
(あの子の顔が、怯えてた)
(俺が、怯えさせた)
(――戻れ)
◇
石造りの天井。紫の光。
俺は床に転げ落ちて、そのまま吐いた。
胃の中には何もなかった。
「……はっ、……はっ」
手の甲を見た。
紋章が、ほとんど見えなかった。
指の関節に、うっすらとした線が残っているだけだった。
(次は、ない)
俺は床に手をついたまま、笑いそうになった。
(次に死んだら、俺は本当に死ぬんだ)
(三十四個目の墓が建つ)
◇
七十日目、二度目の夜。
俺は執務室の扉の前で、一時間立っていた。
考えていた。
(言い方を間違えた)
(俺が話すのが、間違いだったんだ)
女神。別世界。三十三人。
そんな言葉を、あの子が受け止められるわけがない。あの子にとって俺は執事だ。紅茶の温度を覚えている執事だ。それが突然、化け物じみた話をはじめたら、怯えるに決まっている。
(じゃあ、誰が言えばいい)
(誰なら、あいつは聞ける)
俺は内ポケットに手を当てた。
答えは、最初からそこにあった。
◇
「リーニャ様。よろしいでしょうか」
「入りなさい」
書くことのない書類に、ペンを走らせている背中。
俺は机の前に立って、何も言わずに、封筒を置いた。
『リーニャへ』
ペンが、落ちた。
「……」
「先代のお部屋の、机の引き出しの底にございました」
「……」
「私は読んでおりません」
リーニャは、その封筒を見つめていた。
長い時間、見つめていた。
そして、震える指で、封を開けた。
◇
『リーニャへ
これを読んでいるということは、わたしはもう死んでいる。
まず謝る。あなたに何も話さないまま、逃げるようにいなくなることを許してほしい。
三年前、あなたを戦場で拾った時、わたしは自分が親切なことをしていると思っていた。
あなたは九つで、痩せていて、わたしを睨みつけていた。
違った。
拾われたのは、わたしのほうだ。
あの日から、わたしには帰る場所ができた。夜に灯りをつける理由ができた。
あなたが「ただいま」と言うようになってから、この屋敷は屋敷になった。
◇
シンヤという執事がいた。
あなたも覚えているだろう。あなたに菓子を隠して持ってきていた、あの男だ。
あの男は、海を見たことがあるかとわたしに聞いた。
ないと答えたら、しばらく黙って、それから「いつか行きましょう」と言った。
行けなかった。
あの男が死んだあと、わたしは自分が壊れていくのがわかった。
わからないふりをした。ふりをしたまま、砦で六十人を逃がした。
あれは判断ではなかった。もう、殺せなくなっていただけだ。
◇
リーニャ。よく聞いてほしい。
この椅子は、優しい者を殺す椅子だ。
わたしは殺される。それはいい。自分で選んだことだ。
だが、あなたには座ってほしくない。
もし空席になったら、逃げなさい。北の山を越えなさい。名前を捨てなさい。
誰かがあなたに「あなたには才能がある」と言っても、信じてはいけない。
それは、あなたを椅子に座らせるための言葉だ。
◇
最後に、ひとつだけ。
中庭の墓を、あなたは掘らなくていい。
あれはわたしが勝手に始めたことだ。
石がなければ、わたしは待ってしまう。
扉が開くたびに顔を上げて、足音がするたびに息を止めて、そうやって何年も待ってしまう。
待つことのほうが、ずっと怖かった。
だから刻んだ。いなくなったと、確定させるために。
馬鹿な話だ。
シンヤの石を刻んだ日から、わたしは毎晩あの男を待っている。
あなたは、そんなことをしなくていい。
◇
わたしはあなたの親ではない。
あなたの主でもない。
ただ、あなたに帰ってきてほしかった。それだけの女だ。
それだけの話だった。
ヴェルナ・ブラックマン』
◇
執務室は、静かだった。
リーニャは、手紙を持ったまま動かなかった。
泣かなかった。
一滴も、泣かなかった。
ただ、途中で一度だけ、指が止まった。
シンヤの名前が書かれた行だった。
「……この人」
小さな声だった。
「わたしが十二の時に死んだ人よ」
「――ご存じでしたか」
「知ってるわよ」
彼女は紙面から目を離さなかった。
「厨房から菓子を盗んできて、わたしにくれるの。ミルカに毎回怒られてた」
俺は、その光景を思い浮かべた。
窯の前で腰に手を当てているミルカと、菓子を隠す執事と、それを受け取る十二歳の子ども。
「あの人が死んだ日から、ヴェルナは変わったわ」
「……はい」
「わたし、見てたの。三か月かけて壊れていくのを、全部」
リーニャは、そこで初めて顔を上げた。
「だから、わかるのよ」
「何がでしょう」
「執事に情が移った幹部が、どうなるか」
俺は、答えられなかった。
三年で、十六人。
彼女が誰よりも早く鎌を振ってきた理由が、そこにあった。
(――知ってて、やってたのか)
(あんた、自分を守ってたんじゃない)
(執事を、そこまで行かせないようにしてたのか)
◇
やがて、彼女は手紙を丁寧に畳んだ。
三つに折って、封筒に戻して、机の引き出しにしまった。
そして、立ち上がった。
「ユウマ」
「はい」
「三年間、あそこに墓を掘ってたのはね」
彼女は窓のほうを見た。天幕で見えなくなった、中庭のほうを。
「あの人が掘ってたからよ」
「……はい」
「それしか知らなかったの。人がいなくなった時、どうすればいいのか」
「はい」
「だから真似した。十六回」
リーニャは、自分の手のひらを見た。
割れて、治って、また割れた手のひらを。
「……馬鹿だったって、書いてあったわ」
「……はい」
「先に言ってほしかった」
◇
そこで俺は、ようやく気がついた。
三年前、ヨナが逃げた夜のことだ。
あの男は、まだ生きているのに自分の墓が建っているのを見て、その晩に走った。気持ち悪いと言った。
だが、ヴェルナはそんなことをしていない。手紙にある通り、あの人はいなくなった後に刻んでいた。
(じゃあ、ヨナの石を刻んだのは)
(――あいつだ)
十二歳だった。育ての親が中庭で殺されて、一週間後だった。
見様見真似で覚えた作法を、順番だけ間違えたのだ。
執事はいなくなるものだと、もう知っていたから。
いなくなる前に、刻んだ。
(……ヨナ)
(あんたが逃げた理由は、あんたが思ってたのと違う)
(あれは、呪いじゃない)
(十二の子どもが、一人で覚えた間違いだ)
◇
俺は、何も言えなかった。
言えることが、何もなかった。
三年前に死んだ女が、三年間机の底で待っていた言葉。
それを届けたのが、たった二か月しかいない執事だという事実。
(――遅すぎる)
(全部、遅すぎるんだ)
「ユウマ」
「はい」
「あんた、この前『申し上げられません』って言ったわね」
心臓が、跳ねた。
「街に行って、誰かに会って、それは言えないって」
「……はい」
「明日、村で聞くわ」
リーニャは、俺の横を通り過ぎた。
そして、扉のところで立ち止まった。
「今日はもう寝なさい。明日、早いから」
「かしこまりました」
「――ユウマ」
「はい」
彼女は、こちらを見なかった。
「わたし、決めたから」
◇
扉が閉まった。
俺は、しばらくその場に立っていた。
何を決めたのかは、聞けなかった。
聞けば答えてくれたかもしれない。だが、聞いてはいけない気がした。
俺は自分の手の甲を見た。
紋章は、もう、ほとんど見えない。
(――明日、村に行く)
(そこにガイゼルがいる。勇者がいるかもしれない。四百人の村人がいる)
(そして俺には、もう一回も死ねない)
俺は羊皮紙を開いて、余白に書いた。
『ミルカへ。
明日、村へ行く。
帰ってきたら、あんたに話したいことがある。
もし帰ってこなかったら、この帳面を燃やしてくれ。
三十四人目』
◇
翌朝。
大広間に降りると、ミルカが立っていた。
角が、力いっぱい下がっていた。
「ユウマ様」
「なんだ」
「あの、余白に」
「読んだか」
「読みました」
ミルカは、両手でエプロンを握りしめていた。
「燃やしません」
「……ミルカ」
「絶対に、燃やしません」
彼女は俺を睨みつけた。生まれて初めて見る顔だった。
「だから、帰ってきてください」
六の月十一日。ヴェルド村まで、あと二日。
デス:23
(第二十話につづく)




